自由意志と全知全能
>
人間が自由意思を持つということと、神が>
全知全能であるということとは矛盾しないのですか?
人間は自由に善悪を選択できるものとして創造されました。
ただし、神は全知全能ですから、人間が善を選択するか、悪を選択するか予知する
こともできますし、また、何よりも絶対者ですから、どのようなことにおいても神が
積極的に関与しない(つまり神の決定によらない)で起こるということはありませ
ん。つまり、人間が善を行うにしても、悪を行うにしても、もし、神の許しがなけれ
ば、その選択はストップされます。
「もし1羽のすずめでも、神の御心によらないでは地に落ちることはない。」と聖書
にあります。
神は、歴史全体の進む道をあらかじめ決定されています。
つまり、日々私たちが生きていること、今日何を食べるか、どのテレビ番組を見る
かもすべてあらかじめ神によって決定されています。では、このように悲惨な罪の歴
史を神があらかじめ決定されたということは神が悪の創始者ではないかという疑問が
起こっても当然でしょう。
罪を犯すのはあくまでも人間です。そして、その人間が罪を犯して堕落するままに
放置したり、または、その堕落をとどめたりすることを通して、神は人間の歴史の
コースをすでにあらかじめ決定されていたのです。つまり、神はけっして自分からは
人を誘惑することはありませんし、人を罪に落とすこともありませんが、しかし、人
が罪を犯すのを抑制しないことによって、人が罪を犯すことをあらかじめ予定されま
す。
例えば、ユダはイエスを裏切りますが、裏切る思いを抱き、それを実行したのはあ
くまでもユダです。しかし、では、神はユダが罪を犯したときに狼狽したり、驚いた
りしたか、というとそうではありません。神は、ユダを裏切り者として予定されてい
たのです。ユダは神の器として歴史の中において特定の働きをするために選ばれてい
た存在でした。ペテロも裏切りますが、ユダは最後まで悔い改めず、滅びることを予
定されていた存在でした。ペテロは神の「あわれみの器」でしたので、最後に悔い改め
て立ち返ります。
歴史は、神の栄光を現すために神の主権によって定められている舞台であり、あら
ゆることについて神は絶対的な意志を働かせています。
ですから、神を信じてその主権を認め、その法を守る人々は、神によって永遠の祝
福を受けるために選ばれた人々であり、聖書では、神の「あわれみの器」と呼ばれて
います。
また、神に故意に逆らって最後まで悔い改めないで死ぬ人々は、神から見捨てられ
た人々であり、聖書では「み怒りの器」と呼ばれています。彼らは、そのように反逆す
ることを定められた人々なのです。彼らは、神の裁きを受けて、永遠の刑罰にあうた
めに創造された人々です。彼らは、滅びに定められているので、キリストの十字架を
あざ笑って、けっして神のもとに立ちかえりません。
「十字架は、滅びる人々にとっては愚かであるが、救いにあずかるわたしたちに
とっては神の力である。」
>
神は人間の精神以外に(平たく言えば人間の頭の中>
以外に)この世の中に物理>
的な作用を及ぼすことがあるのか?
神は、すべての素粒子に至るまで、いっさいを保持しておられる方であり、物理的
に完全に作用しています。
コロサイ1・17は、「万物は、キリストによって成立している。」と述べていま
す。この「成立している」と訳されているσυνεστηκεν(成り立つ)は、「過
去に起こった事柄が現在どのような状態にあるかに関心がある場合にのみ用いられ
る」完了時制であるので、「過去に成り立ち、その状態が現在も続いている」ことを強
調しているのです。つまり、「万物は、キリストによって成立したが、現在もキリス
トによって成立している」という意味です。
このことから、万物は、キリストの意志がなければ、バラバラになって成立できま
せん。一瞬一瞬、キリストの保持の働きがすべての物質、非物質世界を成立させてい
ると考えることができます。