進化論は張子の虎である
進化論が登場して以来、キリスト教は、進化論の内容を吟味せずに、いたずらに自分を卑下して、相手の立場をもろ手を挙げて受け入れてきた。
聖書にある創造の記事は間違いであり、進化が正しいという立場をとれば、「それでは聖書は神の言葉といえるのであろうか。」という疑問が生まれても当然である。
自然主義神学は、聖書を寓話として解釈し、それを神の言葉と考えることを否定した。聖書を非神話化する必要があると考えた。
それに対して、聖書を救うために登場した危機神学の人々は、キルケゴールの実存主義を用いて、「聖書は、歴史的にそれが実際にあったということはできないが、それでもやはり神の言葉である。人間が信仰するときに、その『歴史的虚構』は『実存的真理』に変わる。」と述べて、急場凌ぎをした。
しかし、これは本当の解決にはなっていない。
歴史的虚構は、けっして真理と呼ぶことはできない。
キリスト教は、歴史的事実の上に成り立つ。
キリストは、たしかに地上において生活し、イスラエルも民族として存在した。虚構の上に築かれた教理は虚構以外の何物でもない。
「歴史的事実はなくてもよい。そこに信仰する主体が存在すればそれでいいのではないか」と考えるのは、よっぽどキリスト教的生き方が好きな人なのだ。
もし、人間が進化によって成立した。人間も社会も偶然の作用によって存在している、とすれば、「人間にも社会にも客観的な道徳の規範は存在しない」と考えてもおかしくはない。
道徳は、偶然によって成立し、偶然によって推移している歴史の中において、ただひたすらに「異物」でしかないのであり、道徳を正当化するいかなる根拠も存在しない。
進化論を肯定し、聖書を寓話であるとすれば、モーセの十戒はただの参考意見であって、権威ある「法」ではない。
法に強制力がなければ、それは法ではない。
それゆえ、進化論を信じれば、法を主張することは一切できなくなる。
国家における法も、社会における法も、根拠のないままに便宜的に追加された約束事でしかない。
それゆえ、その国家や社会において大多数の意見が変化すれば、以前犯罪とされていたことは、もはや犯罪ということはできない。
現在、オウムを悪者呼ばわりしている人々は、オウムが政権を取るようなことにでもなれば、彼らを悪者とすることはできなくなる。
法が相対的なものでしかないのであれば、ナチスのユダヤ人虐殺も罪であると断言できない。
こうなれば、社会は滅茶苦茶である。
このような思想を本気で信じている人など(よほどの無責任者でもなければ)いない。
誰でも善と悪の絶対的区別をしているし、それが客観的な、不変の善悪であると考えながら生活している。
「無辜の市民に襲いかかって殺害するオウムや通り魔は、悪い人間である。」と断定しながら生活している。
「世界は偶然に成立したのだから、そのような犯罪は悪であるとは言えない」などと告白する人間はいない。
それゆえ、進化論的世界観は、世の中の現実から乖離している。
だれも進化論を本気で信じている人間などいない。
もし、進化論を本気で信じているならば、「客観的な道徳は存在せず、それゆえ、通り魔でもオウムでもいずれ善として賞賛されてもおかしくはない。もしそのような世の中になれば私も賛同する。」といわねばならない。
誰がこんなこと告白するだろうか。
進化論は、御都合主義である。
創造者が存在し、客観的善悪が存在するならば、自分の個人的な罪の責任を問われるので、「創造はなかった。進化によって世界は成立した」などという虚偽を信じこもうとしている。
進化論者は、本気で進化論世界観を信じていない。
彼らは、本音の部分において創造論者なのだ。
彼らは、相対主義を徹底できない。相対主義を徹底すれば、社会がめちゃくちゃになることを心の奥底では知っている。
だから、キリスト教は、このような支離滅裂な教義を取り入れてはならない。
自分でも本気で信じていないような人々の意見を採用してはならない。
クリスチャンは、張子の虎を恐れてきた。