フル・プレテリズムとパーシャル・プレテリズム

 

フル・プレテリズム(再臨や新天新地も含めて、聖書とくに黙示録の預言のすべてが紀元1世紀に起こった)は、パーシャル・プレテリズム(聖書とくに黙示録の預言のほとんどが紀元1世紀に起こった。再臨や新天新地は未来に起こる)が歴史的信条に頼る有様を、「母なる教会」への依存と称しているようです。たしかに、歴史的信条にだけ頼ることは間違っているでしょうが、フル・プレテリズムは聖書から見ても異端と証明できるように思われます。これからじっくりと考えていかねばなりませんが。

ただし、日本においては、プレ・ミレ(黙示録の預言はほとんど未来についてである)が主流であり、プレテリズムそのものにも達していないので、この議論がわきおこるのはかなり先のことにはなると思います。

チルトンなどを読むと、聖書が第1世紀の読者をターゲットにしているということがヒシヒシと分かります。マタイ24章や黙示録は、紀元1世紀のイスラエルの人々に向けて書かれており、そのようなものとして解釈すると、きわめて理に適った解釈が可能になります。

例えば、プレ・ミレの人々のように、マタイの24章を未来の患難時代に関する預言と解釈するならば、ユダヤの神殿がもう一度未来において建設されなければならないということになります。もし神殿が再建されるならば、キリストの贖いは一体どうなるのか、それは空しい出来事だったのかという問題が起きます。たとえそれがユダヤ教徒によって建設されるにしても、プレ・ミレの人々が未来の再建された神殿を指すとしているエゼキエルの神殿では、動物によって贖いが実現するとされているわけですから、問題が起こります。

また、イスラエルの潤った地の羊の群れから二百頭ごとに一頭の羊を、ささげ物、全焼のいけにえ、和解のいけにえのためにささげ、彼らのための<贖い>とせよ。…(エゼキエル4515

つまり、「未来の神殿においては、動物が犠牲とされる。そして、その犠牲は「贖い」として有効である」と解釈せざるを得なくなってしまうのです。

この点は、プレ・ミレのマタイ24章の解釈の決定的な弱点であり、恐らくこれを合理的に解決できる人はいないでしょう。

マタイ24章は、明らかに、紀元1世紀の患難について述べていると解釈するならば、「この神殿は未来のものではなく、イエスが目の前にしていた神殿のことである」と解釈でき、無理がありません。イエスの預言のとおりに、紀元70年に神殿は崩壊したわけですから。

黙示録13章の「獣」も、プレ・ミレの人々は、「未来においてヨーロッパに現われる世界統一の独裁者」と考えますが、プレテリズムの立場から見れば、「ローマ帝国及びネロ帝」と理解できます。プレ・ミレに従うと、「なぜ、ヨハネは、手紙の直接の読者である紀元1世紀の地中海諸国に住むクリスチャンたちが理解できもしない『未来の反キリスト』について、『警告』したのか。」という解決できない疑問が沸き起こってしまいます。

このように、プレテリズムの立場に立つと、今日聖書の終末預言と言われるものが、きれいに解釈できるのです。

しかし、プレテリズムの立場に立つ人々の中は、さらに進んで、聖書のすべての個所が、紀元1世紀に起こったと解釈する人々が現われました。つまり、再臨や新天新地、最後の審判すらもすでに起こったというのです。

たしかに、新天新地について、私たちは、「これは、最後の審判の後に起こる、永遠の御国を指す」と考えがちなのですが、イザヤ書において、それは、明らかにイエスの初臨から始まる「キリストの王国」を指しています。

見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。 (イザヤ6517-20

「死ぬ者」がいるわけですから、ここで言われている新天新地は、最後の審判の後、新しい肉体を与えられた後に続く永遠の御国を指すのではありません。これは、キリストの来臨にはじまり、世界において教会を通して拡大するキリストの王国を指すと考えられます。

では、黙示録20章の新天新地も、このキリストの王国を意味するのか、という疑問が起きます。これに対してイエスと答えるのがフル・プレテリストであり、ノーと答えるのがパーシャル・プレテリストです。

海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。また私は、<新しい天と新しい地>とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、{また彼らの神となり、}彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録2013214

ここで新天新地は、死者の肉体的復活、最後の審判、不死の世界の到来の後の出来事であることは明らかなように思えます。

ですから、この新天新地すらも、すでに起こった出来事であると解釈するのは、釈義的にも不可能に思えるのです。

ここは、歴史的に教会が取ってきた立場を尊重して、未来の出来事と考えるのが正しいと思います。

 

 

01/07/23

 

 

 

 




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