ルカ169節の「不正な富」とは「空虚な富」の意

 

<ご質問>

早速、お答えありがとうございました。若者も納得して帰ってゆきました。富井さまに感謝をすると共に、主の御名をあがめる日々でございます。ミレニアムHPの質疑応答・エッセイの項目は、たいへん有意義だと思います。質問の解答とエッセイが増えれば増えるだけ、現代人のキリスト教に対する疑問が減ることは、疑い様のない事実だからです。また、正直申しまして、ミレニアムHPの質疑応答・エッセイは、私の今まで見てきたキリスト教関係のHPの中で、最も的確な聖書的(富井さまの言葉を借りるならば、ヒューマニティーに流されていない)答えを与えてくれています。この度、私が代わりに質問させていただいた、若者の質問も、これから同じような悩みや疑問を持つ者の光と答えになることと思います。第一線で、活躍されている富井さまに、このように言うことは変かもしれませんが、これからも力強く教示して下さいますように、応援しております。最後になりましたが、若者にも代わり重ねて御礼申し上げます。

…この度、富井さまが引用されたルカ伝の16:910聖句の前後の『不正な管理人のたとえ』のお話が、よく解りません。一見、イエス様は悪い事しても、その結果がよければ救ってくださるようにも解釈できるのですが。もし、よろしければ暇な時にでも、教示してください。

 

<お答え>

K様。

どうもお励ましをありがとうございます。

これからもよろしくお願い申しあげます。

さて、問題の個所ルカ16:9-12についてですが、まず話の全文をあげましょう。

イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」 (ルカ161-13

 

<不正な管理人のたとえ話の意味>

ここで「不正な富」と言われているものが何を指すかを見るときに大切なのは、文脈です。

ある管理人が不正をして主人からリストラされることになった。

リストラされた後どのようにして生活の糧を得ればよいか迷ったあげく、彼は、現在の地位を利用して、退職後の準備をしようと考えた。

つまり、主人に借金している人を呼び出して、借金を軽くし、退職後お呼びがかかるように恩を売ったのです。

これは、現在の官僚がやる天下りのようなものです。

そのようなズルいやり方を見て、主人が取った対応は、驚くべきものです。

この管理人をしかったのではなく、逆に誉めたのです!

この管理人が誉められた理由は、「抜け目なさ」にありました。

リストラされた後で悩むような行き当たりばったりの生き方をしたではなく、在職中にすでに次のステップの準備をしていたことが誉められたのです。

イエスは、弟子達に対してこのような「抜け目なさ」を持てといわれました。

 

しかし、それでは、イエスは、弟子達に「おまえたちも、リストラされる前に主人の財産をちょろまかしてでもいいから、次の職への渡りをつけておけ。天下りは大賛成だ。」と教えられたのでしょうか。

いいえ。イエスが教えられたのはそのようなことではありません。

それは、イエスの次の御言葉から明らかです。

「そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」

つまり、イエスが言いたかったのは、「この世」のことではなく、「永遠の世」のことについてなのです。

このたとえ話の教訓は、「この世においてうまく立ちまわれ」ということではなく、「永遠の生命」に関して抜け目なくやりなさい、ということなのです。

イエスにとって、関心の中心は、「永遠の住まい」のことであり、彼にとって一番愚かな人とは、「永遠の住まいに迎え入れてもらえない」人です。

イエスは、同じ教訓を別の個所でこのように言っておられます。

「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」(ルカ124-5

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マタイ1626

イエスにとって抜け目のない人とは、「まことのいのち」を得る人であり、「殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れ」る人です。

このような人は、今の世界における地位を利用して、永遠の住まいに入る準備を抜かりなくします。

しかし、抜け目のある人は、今の世界において、永遠の世界のことについて何も考えず、心配せず、死んでから、「あ!しまった!こんな所に来てしまった!」と嘆く人です。

彼は、自分の人生を神のために使わず、キリストの救いを受け入れず、死後の世界について何も考えていなかったために、死後、路頭に迷ってしまいます。

彼は死んだ後、自分が火炎の中に投げ込まれていることに気づきます。そして、その刑罰が永遠に続くことを悟って絶望の苦しみを味わいます。

「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」(ルカ624

死んでからでは遅すぎるのです。

 

<クリスチャンの報い>

さて、この「不正な管理人のたとえ」は、単に「天国か地獄か」という二者択一の問題を主題としているわけではありません。なぜならば、これは「弟子たちに」言われた話だからです。これは、クリスチャンの報いの問題を主に扱っているのです。

人間は、死後の生活において、大きく分けると、2つの可能性があります。

(1)天国(永遠の御国)に行く人――キリストの贖いを受け入れて罪の責任が取り除かれている人

(2)地獄(火の池)に落ちる人――キリストの贖いを受け入れずに罪の責任が取り除かれていない人

しかし、このカテゴリーは細かく見るとさらに細分化されます。

(1)については、

A. 報いを受ける人
B. 報いを受けない人

(2)については、

A. 重い刑罰を受ける人
B. 軽い刑罰を受ける人 (*)

というサブカテゴリーがあります。

このたとえ話の主題は「クリスチャンの報い」にありますので、(1)について考えましょう。

(1)のカテゴリーには、A.報いを受ける人と、B.報いを受けない人 という2つのサブカテゴリーがあります。

クリスチャンになって、永遠の生命を受けた人であっても、生前どのような生活をしたかによって報いが違ってきます。

「不正の管理人」のたとえは、クリスチャンの生前の生活が、永遠の生活を決定するというきわめて重要な教えを含んでいるのです。

そのテーマは、「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」という御言葉に集約されています。

クリスチャンは、この世界において「小さい事」を任されています。

自分の才能、お金、友人、学歴、職業、家族など、様々なものを任されています。これらは、死後任されることと比べれば小さなことです(「小さい事」のギリシャ語ελαχιστοsは、「最も小さな事」という意味です)。神は、この取るにたらないことを私たちに任せ、それをどのように扱うか見ておられるのです。

会社でも家庭でもそうでしょうが、一般に、まだ相手の力量や性格を知らないうちから大きな仕事を任せる人はいません。相手が小さなことにおいてどのように振舞うかを見て、徐々に責任のある仕事を任せていくものです。

同じように、神も、この地上において私たちに小さな仕事を任せてくださったのです。そして、それに対してどのように対応するかによって、大きな仕事を任せるべきかどうか判断しておられるのです。

抜け目のない人々は、小さな事をいい加減にせずに、しっかりとそれをこなします。なぜならば、彼は、それが「テスト」だと知っているからです。しかし、抜け目のある人々は、それがテストであることを理解していません。この地上での生活がすべてであるかのような生き方をし、死んで神の前に出てから、「あ!あれはテストだったんですか!」と後悔するのです。

地上の生活は、永遠の生活へのテストであり、永遠の御国において、どのような処遇を受けるかは、この地上をどのように管理したかによって決定するということをわきまえなさいということを、このたとえは語っているのです。

 

地上の生活と、永遠の生活は次のように対比して書かれています。

小さい事     大きい事

不正の富    まことの富

他人のもの   あなたがたのもの

我々が、地上において与えられているものは、「小さい事」「不正の富」「他人のもの」ですが、永遠の生活において与えられるものは、「大きい事」「まことの富」「あなたがたのもの」であると言われています。

この2つのグループは、互いに対立の関係にあり、反対の意味を持っていることは明らかです。

ここから、「不正の富」が何を意味しているかが分かります。

 

<不正の富とは?>

「不正の富」とは、よく誤解されているように、「罪を犯して得る富」のことを指しているのではなく、「まことの富」と反対の富、つまり、「はかない富」のことです。もしここでイエスが、不正をしてでも富を得よと述べているとすれば、「不正を犯してはならない」とする聖書の無数の個所と矛盾してしまいます。聖書解釈は文脈が生命です。文脈を無視して、一つの言葉を独立して取り出して結論を出すことはできないのです。

この意味は、文脈から判断しなければなりません。文脈で判断する際に、この個所は、上述したように、対比表現になっていることに着目する必要があります。地上の富と永遠の富が、3つの対として表現され、互いに対立した意味を持っているならば、「不正の富」の意味についても、それは、「まことの富」の反対のことを指していることがわかります。

「まことの富」の、「まことの」にあたるギリシャ語αληθηsは、「現実的な」「実際の」「純粋な」「適切な」「真実の」「確かな」「有効な」という意味を持つ言葉です。永遠の御国における富とは、「現実的な富」で「確かな富」です。

イエスは、それをこのように表現されました。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」(マタイ619-20

まことの富とは、「虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこと」がない富、けっして消えたり、価値が失われたりするような富ではなく、もっとも確実で、真実な富なのです。

ここから、「不正の富」の意味は明らかになります。

つまり、これとは反対の富、「虫やさびがつき、盗人が穴をあけて盗む」ことがある富、不確実で、価値が失われやすい富です。真実な富に対して、虚偽の富です。

この「不正の」に当たるαδικιαは、聖書の様々な個所において、αληθηsの反対語として、「偽りの」という意味で使用されています。

「(愛は)不正(αδικια)を喜ばずに真理(αληθηs)を喜びます。」(1コリント136

「彼らは真理(αληθηs)からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。『主はご自分に属する者を知っておられる。』また、『主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義(αδικια)を離れよ。』」(第2テモテ218-19

ですから、ルカ169節の「不正の富」は、「不義を犯して獲得した富」と解釈すべきではなく、「空虚な富」とか「虚偽の富」と解釈すべきなのです。

 

イエスは、「不正の富」つまり「はかない富」を用いて、永遠の住まいに入る準備をせよ、と言われたのです。「はかない富」だから、無視しなさいとは言われていません。むしろ、その「はかない富」をどのように用いるかは神によってチェックされているのだから、それを賢く用いて、報いを受けられるようにしようと考えるべきです。

「この世界の富など空しい。だから、我々は、この世界のことにあまり関わってはならないのだ。」という流行の考えは間違いです。これは、厭世主義、霊肉二元論であり、聖書はそのようなことを教えていません。

私たちは、この地球を管理するために立てられたのです。朽ち行くものを任されたのは、朽ちないものを獲得するためです。世界中にキリストの王権を拡大し、この世を神の御国と変える使命をどれだけ遂行したかによって永遠の世界における報いが決定されるのです。

 

 

(*)

(2)のカテゴリーにいる人々の場合、刑罰の軽重は、生前、自分が犯した罪の質と量に比例します。普通の人生を送り、(人間的な基準で)まじめに生きた人と、ヒトラーやスターリンのように、何百万人、何千万人の命に責任がある人とは、当然刑罰の重さが違ってきます。

 

 

02/01/31

 

 

 

 




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