人生を無駄にするかしないか

 

 

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい(詩篇127・1)。

 

 自分の人生が無駄になるか無駄にならないかの基準は、聖書にしたがってものごとを決断し、それを行っているかどうかにかかっている。

 

 どんなに主のために頑張っているといっても、聖書の教えを無視して、自分勝手な価値観に基づいて事を行っていれば、その働きは無駄である。その人の人生全体は失敗であり、人生全体の評価を下される最後の審判において、その人は報いを受けることはできない。

 

 何故か?それは、自分の人生を計るのは神以外ではないからである。

 

 例えば、自分がある会社の地方支店を任されているとしよう。もし、自分の価値観にしたがって会社の命令を無視していたら、クビになるか左遷されるかどちらかしかないだろう。なぜならば、自分を評価し、自分に給料を与える権限を持っているのは会社だからだ。

 

 それと同じように、いくら自分で良いと思っていることを行って人生において巨大な財産を蓄えたとしても、もし神の御心と逆のことを行っていたり、神と無関係な生活をしていれば、その人の人生は無駄である。

 

 我々は、死後に人生の清算をしなければならない。人生において何を行ったのか最後に神の前で報告しなければならない。

 

 人生を無駄に終わらせ、死後に永遠の刑罰を受けるか、それとも豊かな報いを永遠に受けつづけるかは、この短い一生の間の決断によって決まってしまう。

 

 キリストの救いを受け入れて永遠のいのちをいただき、聖書にしたがって一生をまっとうするならば、永遠の報いを受け、永遠の栄光に輝くことができる。

 

 

神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです(ローマ2・6−8)。
 
 
 
 



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