現代はメシアの時代である
メシアの時代が到来するとディスペンセーショナリズムのプレ・ミレの人々は叫んでいるが、メシアの時代は、メシアがベツレヘムにおいて誕生した時にすでに始まっている。
メシアが降誕し、十字架にかかり復活して昇天し、天地における王になったときに、メシアの時代が到来した。
我々が生きている現代も、メシアの時代である。
「え〜!! 現代がメシアの時代だって?? コソボ紛争、同時多発テロ、アフガン空爆… こんな血で血を洗うような時代が、メシアの時代???」と彼等は言うだろう。
しかし、我々がどう「感じるか」は、問題ではない。
問題は聖書が何を言っているか?である。
聖書は、「世界はキリストの王国になった!」と宣言している。
キリストが昇天された時に、「天においても地においても、一切の権威が私に与えられた」(マタイ28)と聖書において宣言されている以上、「メシアの時代」が到来したと考える以外にはないではないか。
「いやいや、今日の悲惨な世界の現状を見るときにそのようなことは信じられない」というならば、それは、不信仰なのだ。信仰とは、目に見えるものに頼ることではなく、目に見えないものに期待をおくことだから。
どんなに目の前の状況が悲惨であっても、聖書が「メシアの時代がきた」と宣言したら、「はい、そのとおりでございます」といわねばならないのだ。聖書を前にして、我々は御託を並べる権利はないのだ。
このような文句を言う人々は、みな一様に先入観に支配されている。それは、「メシアの時代は、完全に平和で幸せな時代である」という先入観である。
しかし、聖書は、メシアの時代とは戦いの時代だと証言している。「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。
」(ルカ11・20)ここで神の国は、悪霊どもを追い出した「結果」到来するとはいわれていない。悪霊どもを追い出す「過程」で到来しているといわれている。
つまり、神の国は、暗闇の勢力との戦いと共存するといわれている。
「再臨のイエスが、悪霊たちをたち滅ぼして、もはやいかなる敵対も、戦いも、妨害もなくなった」時代を神の国とかメシアの国と聖書は呼んでいないのだ。
現在、我々クリスチャンは、悪霊の攻撃にさらされている。戦いは継続している。世界の弟子化は進展している。
これこそ、メシアの時代の特徴なのだ。メシアの時代は、「戦闘の時代」なのだ。しかし、この戦闘は我々の勝利に終わる。なぜならば、キリストが天地の王だからだ。
キリストは、法的に主権者である。しかし、実際の世界はまだキリストの主権を認めていない。つまり、実際的には主権者ではない。しかし、法的な主権者であるならば、時間とともに、実際的な主権者になることは明らかなのだ。
キリストが世界の実際的な主権者となるには、我々の戦いが必要である。キリストは、我々を戦士として召しておられる。我々がサタンと戦うことなしに、キリストは主権を取られることはない。
「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
」(ローマ10・14)宣教するのは、我々である。
戦うのは、我々である。
再臨のキリストは、総大将として、サタンのとどめを刺すために来られる。
敵地を獲得する場合、最初に元帥クラスの将校が乗り込む戦争などあるはずがない。
最初に切り込むのは、兵隊である。兵隊が敵陣をつぶした後に、総大将がやってくる。
しかし、プレ・ミレの図式では、兵隊がやっても無駄だから、総大将がまず切り込むのだ、と教えている。
「再臨が来るまで、我々はサタンに勝つことはできない」と彼等は教えているのだ。
現代はメシアの時代である。
メシアの時代は、戦いの時代である。メシアはすでに天地の王である。だから、この戦いは我々の勝利に終わる。我々が勝利するのは、歴史が始まる前から神が定めておられる運命なのだ。我々には、勝利以外ありえない。
だから、確信を持って我々はサタンと戦わねばならないのだ。
01/11/01
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