現代において、契約の箱に意味はあるのか?
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ご質問>クリスチャンにとっての、失われた「契約の箱」の意義ついて教えてください。
日ユ同祖論者の方は失われた十部族とアークは日本に封印されたといわれますし、ある考古学者はゴルゴダの丘の地下に安置されているといわれます。また、ある者は黙示録
11:19の御言葉から、契約の箱はすでに天上に移されていると解釈しています。その他にもさまざまな事がいわれています。仮に将来、櫃が再び歴史の表舞台に現れた場合、それは人類にとっての至上の宝であることは間違いの無い事実ですが、同時にクリスチャンにとって櫃はいかなる意味を持つ物なのかという問題が発生してくると思うのです。聖書に次のように書かれていないでしょうか。『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自信のものではないのです。』<コリント
I6:12より>イエス・キリストの贖い後、新約時代において聖霊を受けたクリスチャンの体が神殿であるなら、櫃や神殿というのは聖霊を受けたクリスチャンの雛型なのだという気がいたします。そうしますと、旧約時代の「生贄や捧げ物」が廃止されたのと同じように、キリストを受け入れた者にとっては、「契約箱」は霊的、信仰的にあまり意味を持たないのではないかと考えてしまいます*。<ヨハネ伝4章
20節以下参照> (*アークによる民族的アイデンティティーの確立や復興、その他の政治的な影響を除いた場合)聖霊を受けたクリスチャンにとっての「契約の櫃」の聖書的な価値を教えてください。よろしくお願いいたします。P.S.
巷では「契約の箱」については色々な考察がありますが、クリスチャンと櫃の関係は今まで無視されてきたように思います。私のキリスト教徒的な観点から言わせてもらえば、諸人が言うが如く価値は櫃に殆んど無いはずです。もちろん、学術的価値などは量りがたいものがあるでしょうが、真のクリスチャンには聖霊が与えられています。聖霊は絶対的な存在であり、櫃に働かれる力の根源の一つだと断言できるからです。しかし、素人が性急に答えをだすのは危険だと考え、今回の質問にいたりました。ご協力、お願いいたします。
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お答え>まったく同感でございます。
いくら契約の箱が出てきたとしても、それは、もはやクリスチャンにとって、考古学的、古物愛好的意味以外のいかなる意味もありません。しかし、ディスペンセーショナリズムのキリスト教(?)は、終末において神殿が再建され、契約の箱が再び置かれ、犠牲の牛がほふられるだろうと、述べています。これはまったく聖書の教えを無視しています。すでに、キリストが犠牲になり、「
1回限りの」「永遠の」犠牲を捧げられたのですから、もはや犠牲は必要ありません。ほかの犠牲を捧げることになれば、キリストを冒涜することになります。「モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である。」と言いました。また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(へブル9・19-28)
「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。」(へブル9・8-10)
日猶同祖論者のクリスチャンの大多数は、(これからやってくる千年王国時代に旧約のユダヤ教が復活し、神殿礼拝が復活すると考える)ディスペンセーショナリストであり、日本に契約の箱があるとか興味を持つ人は、単なる考古学的な関心からではなく、それが救済史において意味があるかのように考えており、契約の箱を本気で探しています。しかし、契約の箱は、もうすでにキリストにおいて成就しており、実物が現われたのですから、そのようなものは神学的な意味において不用です。
契約の箱は、契約の二枚の板を収めたものであり、世界の中心でした。神が契約の箱のケルビムの間からイスラエルを支配しておられたからです(出エジプト
25・22)。これは、神とクリスチャンとの間に結ばれた契約が信仰の中心であり、また世界の中心であることを示しています。神とクリスチャンの関係は、この世において最も重要な関係であり、それは契約によって成立しています。契約の箱の中には、契約の二枚の板が入っていました(申命記10・5)。契約の二枚の板は、人間は神の十の戒めを守り行う責任があり、それが信仰の中心であることを示しています(あれだけ契約の箱を強調するにもかかわらず、ディスペンセーショナリズムは十戒を守る必要はないと教えています。ディスペンセーショナリズムがいかにピントがずれているかがわかります)。また、その中にあったマナの壷とアロンの杖(へブル9・4)は、神がイスラエルとともに常におられたように、クリスチャンとともにいて、必ず生活を支えてくださること、神の絶対的支配をそれぞれ象徴しています(出エジプト16・33-34、民数記17:1-13)。箱の蓋は、「贖いのふた」と呼ばれ、キリストの贖いを象徴していました。人間は、契約のふたを開けてじかに契約の二枚の板を見ることはできませんでした。見たものは殺されました(
1サムエル6・19)。このことは、人間は罪を帯びているので、キリストの贖いなしではじかに戒めをつきつけられると死ぬしかないということを象徴しています。贖いのふたを覆うケルビムは、キリストの前で仕える御使いを示しており、御使いがいつも神を見上げて奉仕していることを象徴しています(出エジプト25・20、マタイ18・10)。また、ゴルゴタの丘の下に契約の箱を発見し、その上には普通の人の血とは異なる血がかかっていたと述べる人がいます。この人が発見したとされるノアの箱舟の写真を見ましたが、方形ではなく、普通の舟の形をしており、聖書の記述と矛盾します。このようなセンセーショナリズムは、いかにそれが善意から出たものであるとはいえ、かえって良識有る人々の心を悲しませることになり、クリスチャン以外の人々からも嘲笑の的になりますので、注意が必要と思われます。
02/03/16