神の国は自分自身の回復から始まる

 

 人間は、神を象徴する像として造られたが、堕落してしまったために、神を表すどころかサタンを表すものになってしまった。

 しかし、どんなに堕落した人間においても、神の像は完全には消し去られていない。

 それゆえ、どのような人間でも、彼を私的に(神が定めた公的な手段によらずに)殺すことは禁じられている。リンチは罪である。

 人間は、理性、知性、感情、運動能力において神を象徴している。

 その全体を通じて神とはどのようなお方かがわかる。

 人間が泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだり、考えたり、計画を立てたりするのは、神がそのようなお方であるからである。

 人間の喜怒哀楽は、神の喜怒哀楽の似姿である。

 つまり、人間が喜怒哀楽を行う以上に神は喜怒哀楽をされる方なのだ。

 写真が、本人を不完全にしか映せないように、人間の資質は、神の資質の不完全な表現である。

 人間の対話の能力は、神の対話の能力の反映である。

 言葉は、神の御属性を表す最も高度な能力である。

 もともと、人間には、自然的能力と、超自然的能力の2つが与えられていた。

 人間が堕落した結果、思考・運動・感情の自然的能力は不完全なもの、汚染されたものになったが、超自然的能力は、神の聖を反映するものであるから、完全に失われてしまった。

 神の霊は少しの汚れも受け入れられないので、人間から離れてしまった。

 キリストを信じることは、これらの能力の回復である。

 キリストを信じた人には、神の霊が与えられる。

 聖霊は、人間のうちに再び宿り、彼に超自然的な啓示を与える。

 それゆえ、聖霊を受けたクリスチャンは、ノンクリスチャンが分からない霊的な事柄を理解できるようになる。

 自然的能力は回復し、超自然的能力は復活する。

 キリストを信じることは、神の像としての人間性の回復である。

 聖化されるということは、日本人が考えている修行とは異なる。

 聖化とは、神の像の回復なのだ。生涯を通じて、神は人間を聖化され、ついに、復活のときに、完全な似姿になり、神の栄光を完全に反映できるようになる。

 キリストを信じて人間性を回復した人々は、自分の周りの世界を神と和解させ、回復の業に励むようになる。

 サタンが破壊した人間関係、社会、文化、文明を、神の御心に適ったものに変える務めに励むようになる。

 それゆえ、再建の働きの基本は、まず自分自身を神の像として回復することから始まる。自分が神に似たものとなることと、周りの世界の回復は車輪の両輪である。どちらが欠けても満足な結果は得られない。

 それゆえ、イエスは、「神の国とその義とを第一に求めなさい。」と言われた。

 人間は、神の国の到来のために働くが、同時に、自らが神の義に生きなければならない。

 ザアカイは、人々から金銭を奪い取っていたが、イエスと出会って、それらを律法の規定にしたがって、被害者に返済すると約束した。

 イエスは、彼の家に救いがきたといわれたが、それは、「救いとは、自分の回復と同時に回りの世界との関係の回復でもある」からである。

万物は、エデンの園の状態に回復しなければならない。それは、自分自身が神の像として回復することから始まる。

 

 

 




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