神は悪を犯せるか?
もし神が全能であるならば、「四角い丸」を作ることができるだろうし、「自分を消滅させること」だってできるだろうし、「悪を犯すこと」も可能だろう、と言う人々がいる。
彼らの間違いは、「神の前に数学的世界や存在や倫理が存在した」という命題から出発している点である。
数学的秩序や存在や倫理は、神の創造なのだ。神の創造の前にこのようなものは存在しなかった。神は無から世界を創造された。
神は罪を犯せるかということを問う人は、「神の意志そのものが善」であるという聖書の教えを無視している。
神がなすことこそが善なのだ。「神は約束を破らないから神は善だ」と言うのは間違いである。それは、あたかも神の前に「約束を破らないことは善である」という規則が存在していたかのようである。しかし、神の前にそのような「善悪の世界」が存在していたと聖書は述べていない。
「神は約束を破らない御方なのであり、このことを言葉に関する善と定義する」というのが正解なのだ。
人間の中で善人とは、神の性質に近い人のことを言うのであり、悪人とは神の性質から遠い人のことを言う。
堕落とは、何か神とは無関係に存在する善悪の秩序の中で、序列が下がっていくことではない。
堕落とは、神の似姿からの乖離である。もともと人間の倫理的性質は神の倫理的性質に完全に似ていた。
雪像が、日の光を浴びるうちにだんだんと溶けて形が崩れていくように、はじめ神の像であったものが、次第にそれとは似ないものに変わっていくことが堕落の意味なのだ。
しかし、ローマ・カトリックの神学やアルミニウスの神学、ヒューマニズムは、神の前に「善」という概念が存在したと考える。神とはこの善に完全に一致している存在である。その次に善に近いものは天使である。そして、教皇が続き、聖職者が続き、一般信徒が続く。最も下にいるのはユダのような悪人である。神も人間も同じ階層秩序に組み込まれているので、創造者と被造物の間に不連続は存在しない。つまり、神とは「人間を完全にしたもの」でしかない。
善悪の秩序の世界が神の前に存在していたと考えるこのような考え方は、神を相対者としている。
万物は無から創造されたのであり、善とは神の意志そのものであり、悪とは神の意志への反逆である。
このような前提に立たないから、「神は罪を犯せるか?」などという質問が出てくる。