神の奥義の管理者は人の歓心を買おうとしない
啓示信仰に立つ者たちが、啓示についていいかげんであるならば、その立場そのものが崩壊する以外にはない。そのため、聖書信仰の人々はどんどん、リベラル派にやられてきた。
自分たちが信じたいものを信じるという誘惑に勝つことができなければ、その人は、伝道できないのだ。
そう伝道してはならないのだ。偽りをばら撒く病原体には語る自由はないのだ。
「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」(ガラテヤ
1・10)教会成長学なるものの影響によって、教会は客集めに奔走し、ディズニーランド化した。
教会成長学すべてが悪いといっているのではない。
教会の成長は、企業の成長とはまったく違う原理によることをまず前提としなければならないと言っている。だから、経営学の導入については、神学は慎重にならねばならないのだ。
牧師や伝道師は、絶対に人の歓心を買おうとしてはならない。
彼らは、「神の奥義の管理者」である。
管理者であることを忘れた人々によって、今日、キリスト教が荒廃の憂き目にあっていることに注意しなければならない。
なぜ、彼らは、偽りを言ってまで人に気に入られようとするのか。
待てないからである。
彼らは、客が入らないことに苛立つ経営者のように、自分の教会が百人教会、千人教会にならないことに歯噛みしている。
どうせ悔しがるならば、自分が真理を伝えず、妥協して、耳障りのよい教えを伝えていることを悔しがればよい。
01/07/11