携挙の意味と終末までの流れ

 

 

天上のクリスチャンは支配者である

 

 クリスチャンは王であるといわれている。それは、生きているクリスチャンだけではなく、死んだクリスチャンも王として世界を支配している、と言われている。

 

また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生きており(*)、キリストとともに、千年の間王となった(黙示20・4)。

 

 主の祈りにおいて「御心が天で行われるように地上でも行われますように」とあるとおり、天において、御心は完全に行われているので、昇天したクリスチャンたちは、あらゆることを完全に理解している。

 

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります(1コリ13・12)。

 

神がどのようなお方であるか、この地上で何が重要な働きで、何が重要な働きではないか、現在神の国はどのように進展しているか、正確に理解している。地上にいるクリスチャンは、罪によって曇らされた理性によって不完全な理解力しかない。それゆえ、もっとも重要な働きとそうでない働きの区別がつかないので、神の国の進展の障害となっている。しかし、天にいるクリスチャンは、「顔と顔とを合わせて見るように」はっきりと物事の価値を理解し、神の国の前進のために祈り、我々を注視し、励ましている。

 

 へブル書の記者は、このような観客について次のように述べている。

 

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか(へブル12・1)。

 

彼らは、我々のことを知っている証人である。彼らは雲のように無数の観衆として我々を取り巻いている(**)。それだけではなく、彼らは王として、神の国の進展のために働いている。

 

山上の変貌の個所で、モーセとエリヤが現われてイエスと、エルサレムで遂げられる十字架の御業について話し合っていた、と聖書は記している。

 

これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである(ルカ9・28-31)。

 

天上のクリスチャンは、地上の出来事に関心を持ち、積極的に働いているということがこれで分かる。神の第一の関心事は、御国の発展である。それは、天における発展というよりも(天では御心が完全に行われているので)、地上における発展である。それゆえ、天上のクリスチャンの第一の関心事も地上王国建設にある。

 クリスチャンが肉体を身にまとっている間は、クリスチャンは御国を地上に来たらすために働く働き人であり、地上において支配の役割を与えられている。自分自身を支配し、家庭、教会、国家を神の御心どおりに治める務めを与えられている(創世記1・28)。地上におけるこの支配の役割が終われば、彼は天に召される。天において、クリスチャンは、地上における御国の進展について、地上に残されたクリスチャンのために支援し、励ます。パラダイスに行ったら隠居生活が待っているわけではない。なぜならば、支配の務めは、キリストの再臨の時まで続くと思われるからである。

 

それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売(多数派本文Majority Textでは「占領Occupy」)しなさい。』 …さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた(ルカ19・12-15)。

 

 キリストは、昇天されたときに王位を受けられた(マタイ28・18)。しかし、彼は帰って来なければならない。その帰宅までの間、地上のクリスチャンだけではなく、天上のクリスチャンも支配し、神の領土を拡大するために働かねばならない。

 なぜならば、神の軍隊である教会は、地上のクリスチャンと天上のクリスチャンから構成されているからである。教会において、天上のクリスチャンも重要な役目を与えられている。神は、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」であり、「死者の神ではなく生きている者の神である」。アブラハムもイサクもヤコブも現在天において生きて働いている、とイエスは言われた(マタイ22・32)。

 

地上のクリスチャンは支配者である

 

 地上のクリスチャンは、キリストとともに世界の支配者である。

 

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました(エペソ2・4-6)。

 

キリストを信じて教会に加えられたクリスチャンは、キリストにおいて第一の復活を経験し、昇天した。それは実際の復活、昇天ではなく、「キリストにあずかる」復活であり昇天である。キリストが天において万物の支配者となったのであるから、キリストと一つであるクリスチャンも万物の支配者なのだ。

 

イエス・キリストは、…私たちを王とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である(ジェームズ王欽定訳・黙示録1・6)。
私たちは御使い(言語は、堕天使をも意味する’αγγελουsである)をもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか(1コリ6・3)。

 

クリスチャンは、悪霊を裁く権能を持っている。地上歴史において、サタンや悪霊どもと戦い、彼らを徐々に地上から追い出し、最後には、キリストにあって、永遠の火の池に投げ込む。

 

携挙において支配者の地位は完全に確立する

 

 このように、現在 天にいるクリスチャンと、地上にいるクリスチャンはどちらもキリストにあって支配者であり、キリストと同じ統治の務めを与えられている。キリストと教会は一つの体であり、キリストが、新しい肉体に復活したならば、クリスチャンも新しい肉体を受けるはずである。キリストが肉体をもって昇天し、天の御座についたのであるから、クリスチャンにも同じことが起こらねばならない。再臨の時に、クリスチャンは、死んだ者も生きた者も、よみがえって、肉体を与えられ、昇天するのである(***)。キリストを信じたときに霊的復活と霊的昇天が成就したが、携挙において肉体的復活と肉体的昇天が成就し、世界の支配者の地位は完全に確立する。

 

私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ(****)、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・14-17)

 

 携挙されたクリスチャンは、雲の中において肉体において行った業について各自報いを受ける。キリストとともに支配者の座につき、この世界を裁くためには、まず神から自分の行いへの評価が下されなければならない。我々はあくまでも人間であり、その肉体において行ったすべての業について主権者である神に責任を負っているからである。

 

それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』 …さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』(ルカ19・13-19)

 

そして、キリストは、空中から地上に住む人々に対して裁きを行われる。バーンズは空中からの裁きについて次のように述べている。

 

このことから、来臨の主イエスは、地上に下りていくのではなく、地上から少し離れた空中に留まり、そこにおいて、偉大なる裁きを行われるように思われる。事実、地上で裁きが行われることを示唆する個所は聖書には存在しない。生きている人々と死んだ人々からなる大きな集団を収容する空間は地上には存在しないだろうから、裁きの座は、十分な広がりを持つ空中に据えられることだろう(Albert Barnes, Barnes' Notes on the NT, Complete in one volume, Kregel Publications, p.1100)

 

また、裁きが終わった後のことについて次のように述べている。

 

このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。これは、彼らが空中において主とともに永遠に留まり続けるという意味ではない。彼らの最終的な住まいは天にあるからである。裁きが終わると、彼らはイエスによって栄光の世界に導き入れられる。マタイ25・34「さあ、わたしの父に祝福された人たち。…御国を継ぎなさい」(Ibid.)。

 

まとめ

 

終末における一連の出来事の流れを記す:

 天上のクリスチャンも地上のクリスチャンも、支配者としてキリストとともに現在世界を支配している。クリスチャンが積極的に世界に対して働きかけるときに、世界は徐々に神の国に変わっていく。サタンの業は滅ぼされ、福音が世界を覆い、祝福の時代が訪れる。福音が世界中において勝利し、全世界の国民がキリストの弟子となったときに、キリストは世界を裁くために再臨される。キリストとともに天上のクリスチャンの霊が支配者としてやって来る。神の合図とともに、まず天上のクリスチャンの霊に栄光体が与えられ復活し、携挙される。地上に生きているクリスチャンは一瞬のうちに体が栄光体に変えられて、天上のクリスチャンとともに携挙され、空中において主と会う。(クリスチャンでない人々にも肉体が与えられるが、携挙はされない。)キリストが肉体をもって昇天されたのと同じように、クリスチャンも肉体を与えられ昇天することによって、クリスチャンは完全にキリストに似たものに変えられる。つまり、クリスチャンは世界の支配者になった。空中において、クリスチャンは、肉体において神の国のために行った業に応じてキリストから報いを受ける。その後、キリストはクリスチャンとともに、サタンや悪霊、地上に住むキリストに従わなかった人々に対して裁きを行う。キリストはクリスチャンに栄光に満ちた永遠の御国を継がせ、サタンと福音を拒絶した人たちを永遠に燃え続ける火の池に投げ込む。そして、万物を御父に献上して、歴史が終わり、永遠の世界が到来する。

 

(*)この言葉を新改訳聖書をはじめ多くの聖書が「生き返って」と訳しているが、ギリシャ語は「生きた(’εζησαν)」である。つまり、言語では、「殉教者たちも生きており、キリストと共に支配者なのである」ということを言っている。デイビッド・チルトンはこのように述べている。

 

聖徒たちは天において支配するのであろうか、それともこの地上においてであろうか。答えは明らかに「両方において!」でなければならない。聖徒たちの王座はキリストとともに天にある(エペソ2・6)。しかし、彼らは主とともに地上で支配し、治めているのである(参照・2・26-27、5・10、11・15)。御国においてキリストとともに支配する人々は、彼に贖われた人々であり、生きている者、死んだ者(旧約の信徒も含む)からなるすべての聖徒の集団(the whole Communion of Saints)である。イエス・キリストは、昇天されたとき、すべてのクリスチャンを王座に引き連れていってくださったのである(David Chilton, The Days of Vengeance, Dominion Press, 1987, pp.514-515.)。

 

(**)この個所は比喩的な意味しかなく、実際に天上のクリスチャンたちが我々を取り巻いて注視しているかどうかはわからないという注解者が多いが、天上のクリスチャンが支配者であるならば、当然地上の戦いについて無関心であるはずはないとしなければならない。

 

(***)デイビッド・チルトンは、携挙についてこのように述べている。

 

[クリスチャンの]決定的な昇天は、イエス・キリストとともに象徴的に起こった。我々は、キリストにおいて、今 天の所に座しているのである(エペソ1・20、2・6)。発展的な(=経験的な)昇天は、礼典において、キリストとともに毎週起こる。聖餐式において、我々は毎週天に携え挙げられているのである(へブル12・22-24)。そして、最終的な(極限的な)昇天は、終末においてキリストとともに、実現する。すなわち、a)死ぬときに我々の霊は昇天する(黙示録20・4)、b)歴史の終わりに我々の肉体は携挙される(1コリ15・50-55;1テサロニケ4・17)。

 

(****)「引き上げられ」と訳されている言葉‘αρπαγησομεθαは、「外部からの力によって無理やり取られる」「力ずくで人が奪い去られる」という意味であり、マタイ11・12では、「奪い取る」と訳されている。

 アルバート・バーンズは、「ここで用いられている言葉は、外部からの力によってこのことが起こるということを暗示している。自分が持っている上昇力によるではなく、復活して変えられた彼らの体が自発的に上昇する傾向を持つというわけでもない。また自分の意思や努力によって持ちあがるのでもない。ある力が[外部から]働いて、上昇するのである」と述べている(Albert Barnes, Barnes' Notes on the NT, Complete in one volume, Kregel Publications, p.1099)。

このことから、携挙は物理的出来事であって、象徴的・霊的出来事と解釈すべきではないと言えるだろう。

 

 

 

 

 




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