新約聖書はなぜギリシャ語で書かれたのか?
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ご質問>なぜ?新約聖書や初期のキリスト教文献はヘブライ語
(ヘブル語)ではなくて、ギリシャ語で書かれたのですか。教えてください。
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お答え>当時ギリシャ語は、今日の英語のように、世界語として広く地中海諸国に普及していました。ギリシャの文化的な覇権は、その政治的勢力の拡大にともなって地中海地方はもとより、遠くイランにまで及び、政治的影響が失われた後でもギリシヤ文化は当時の人々のあこがれの的でした。
神が聖書をヘブライ語(またはアラム語)ではなく、ギリシャ語で記されたのは、福音が異邦人に届くためであったと思われます。ユダヤ教は、神がイスラエル人を選び、彼らを神の民とするという民族的な性格を帯びていましたが、キリスト教はその福音が全世界の民族に伝わるように整備された超民族的宗教でした。
予備校時代、世界史の教師が、「キリスト教は、単にユダヤ教がヘレニズム文化にのって国際化されたものに過ぎない。」と述べていましたが、(旧約聖書の宗教という意味での)ユダヤ教は、最初から国際性を帯びた宗教でした。
神はアブラハムの選びが、世界のすべての民族を祝福するためであると言われました。
「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。」(創世記
18・17-18)創世記
10章には、ノアから出た諸国民の系図が載っており、それに続いてアブラハムの召命があります。つまり、聖書のこのような書き方は、この宗教が「アブラハムから出る民族の祝福のためだけの宗教」ではない、ということを示しているのです。アブラハムの召命には、世界のすべての民族を祝福するためという超民族的性格が最初からあったのです。しかし、ユダヤ人は、この世界諸民族の祝福の源となるという使命を拒んで、ユダヤ民族の世界的覇権を得ようとしました。弟子たちも、イエスに対して、そのような期待を抱いていました。
「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』」(使徒
1・6)彼らの救世主観は、まだ、当時の一般のユダヤ人のそれとあまり変わりがありませんでした。
初代教父の数人が信じていたプレ・ミレも同じように、ユダヤ民族主義の影響を受けたものであり、世俗的な覇権を目指すものでした。
それに対して、キリスト教は、超民族的宗教として歩み出しました。しかし、それがあまりにも普遍化されすぎて、逆にユダヤ性を完全に拭い去られるに至りました。コンスタンチヌス帝は、キリスト教からあらゆるユダヤ色を徹底して払拭せよとの命令を出し、それ以来、キリスト教は、反ユダヤ的になりました。
しかし、ユダヤ性そのものが悪いのではなく、ユダヤ覇権主義、一国至上主義、偏狭な愛国心が悪いのですから、ユダヤ性そのものを標的にしてはなりません。正しい意味での超民族性とは、ユダヤを徹底拒絶することではなく、その文化的脈絡をしっかりととらえ、神がユダヤに対して与えられた民族的教えを、その本質を理解した上で、超民族的な教えに普遍化することです。
ヒューマニズムが、世界統治の原理として破綻をきたしている現在、我々の使命は、聖書においてユダヤ人に与えられた世界統治に関する神の教えを、世界のすべての民族の利益となるように翻訳して提示することなのです。
新約聖書がギリシャ語で書かれたことから分かるように、神が望んでおられるのは、全世界の国民、民族がキリストの弟子となることです。特定の民族や立場の人々に神の真理をとどめておくのは、御心ではありません。
02/03/12