神の働き人は聖書に堅く立て

 

 自分の活動が真理の中において進められるかどうかは、非常に重要なことであり、もし、方向性が間違えば、結果は悲惨なものになる可能性があります。

 正義感を抱いて参加した純朴な青年たちが、様々なカルトによって犯罪を犯すはめになったという事例は枚挙にいとまがありません。

 神の言葉に従うのか、それとも、自分の理性、感情、経験、「神からの預言」に従うのか。

 「自分を悟りのある者と思うな。」という戒めに表されている「謙譲」こそが、真の働き人、預言者として立つために必要なことであると考えます。

 よく、正統的な神学を拒否する人々は、「神はわたしに新しい真理を啓示された。」と言われますが、2000年もの間に神が教会に教えてこられた事柄から非常にかけ離れたことを主が教えるはずはありません。もしそうならば、神は二重人格者です。

 だから、正統的・歴史的な神学から乖離した教えを唱えることは危険です。私たちは、教会史を学び、教理史を学ぶ必要があります。

 

 

 まず、正統的な神学において、真の預言者の立つ土台は、正典としての聖書であるとされています。

 聖書にどう書いてあるかがポイントです。聖書すらも否定するならば、その働きは異端になります。世にあるあまたの異端は、聖書のほかに正典または「教祖の言葉」を設定します。

 そして、実質的に聖書の教えをその「正典」「教祖の言葉」によって空洞化してしまうのです。

 ここに、異端の異端たるゆえんがあります。

 つまり、異端者は、聖書よりも高い思想を自分は身につけていると錯覚するという、サタンのわなにはまっているのです。

 エバに対してサタンは、「神は本当にそのように言われたのですか?」と聞きました。

 そして、「神の言葉はウソです。本当は、あなたがその実を食べるとき、あなたの目は開けるのです。そして、あなたは神のようになれるのです。」と誘惑したのです。

 まず、神の言葉を疑うことからサタンの誘惑は出発します。

 聖書よりも高い啓示があると考えることは、人間にとって第一のそして究極的な失敗です。

そのようなサタンの誘惑を退け、「神を恐れることは知識の始め。」との「謙遜」から出発することが必要であると考えます。

 

 

 




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