神の働き人は聖書に堅く立て2

 

> > (1)イエスは旧約聖書の律法を廃棄されなかった

> >イエスの御言葉や行動、新約聖書記者の言葉や行動は、すべて、

> >旧約聖書と矛盾しないとするのが、聖書全体の主張です。

> このことは、私もその通りだと信じています。私と、トミーさんの違いは、「聖

> 書」や「御言葉」を逐語霊感説的にとらえるのか、神の教え、思想を、歴史的に

> 生きた生命活動としてとらえるのかの違いが見えてきます。私は、使徒行伝は今

> も書き続けられていると信じています。

> 聖霊を持つクリスチャンの生き方の中に聖書が書き継がれています。

>

> 聖書は終わってはいません。聖書成立の歴史を見直してください。神の御心によ

> り聖書は書かれ、神の御心により聖書は集められ、聖典とされました。神は、人

> 間の不完全性を通して、御教えを述べておられるのです。

> 神の真意は、聖書の中の論争、批判、対話討論にその神髄が込められています。

> また、歴史の中にも現れています。

 

 さて、私たち、クリスチャンは、仰るように神の預言者として召されています。

 パウロは、自分のことを「神の奥義の忠実な管理者である」と述べています。

 これまで2000年の間、教会は、聖書を神の言葉として受け取り、それを無謬の権威としてきました。そして、神の言葉として神が無謬のものとして記した聖書から逸れてはならないということで、原典に忠実な解釈を探ってきたというのが正統的な信仰の中心でありました。

 ヨハネが黙示録の最後において結んだ個所を最後に正典としての聖書は完結しているというのが歴史的なキリスト教の立場です。

 ヨハネは、次のように述べています。 

 「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これに付け加えるものがあれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。これらのことをあかしする方(キリスト)がこう言われる。『わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」(22・18−20)

 聖書は、神の証人として、イエスによって正式に任命された人々(使徒たち)によって書かれた証しの文書です。ですから、聖書各書(手紙や福音書)を正典に加えるかどうかは、この「使徒(または使徒の指示のもとに文書を記した人々)による文書」であるかどうかにかかっていたのです。

 イエス御自身は、使徒たちを世界に紹介して、「彼らの言うことを聞きなさい。」と言われました。「全世界に出て行って福音を述べ伝えよ.」と言われたのは第一に使徒たちでした。

 使徒たちは、イエスと行動を共にして、イエスが御業を行われたときには、必ず少なくとも2,3人がお供をして目撃者となりました。旧約聖書には、「2人または3人の者による証言は真実である。」とされているからです。

 「しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れてくださいました。しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。」(使徒10・41−42)

 このようにイエスによって正式に任命された証人である使徒たちは、自分が目撃したことを証しする文書を記しました。それが正典として採用されたのです。

 ですから、正典としての聖書は、他のクリスチャンが書いた書物とは「質的に」「決定的に」 異なっており、イエス御自身のお墨付きがあるのです。それゆえ、教会は、聖書啓示を他のクリスチャンの文書と区別して、神の言葉、無謬の教えとして、尊重してきたのです。

 それに対して、普通のクリスチャンが神から啓示を受けて述べた言葉は、新約聖書においては、「預言」と呼ばれています。しかし、この預言が無謬であるとか、霊感を受けているとかはけっして言われておらず、むしろ、それらは、「吟味すべき」ものとされています(第1コリ14・29)。この「吟味」するという言葉は、「疑う」と同義の言葉が使われており、それゆえ、どんなに神の啓示を受けたと主張するクリスチャンの言葉であっても、それは、「疑われるべきもの」であり、正典の聖書とは質的に区別しなければならないのです。

 そして、この直後に、パウロは次のように述べています。

 「自分を預言者…と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。」(37)

 つまり、自分が預言者としての賜物を受けていると自覚している人は、次のことが、神からの命令であるということを認めなければならない、とパウロは述べているのです。

 すなわち、<「預言」そのものが、「疑われるべきもの」であり、聖書と並ぶ権威を持つものではない。>ということです。

 パウロが「吟味」と呼んでいることは、「神の無謬の言葉である正典聖書に照らしてチェックする」ということを示しています。当時のクリスチャンは、預言者と自称する人々がやってきた場合、彼らの教えが聖書に照らして間違いがないか、チェックしていました。

 このように、聖書と預言者の言葉とを区別すべきであり、正典としての聖書は、すでに完結しているとするのが、聖書自らが述べていることであると考えます。

 

> なぜ、イエス様が死刑を宣告され、殺されてしまったのかを深く黙想して下さ

> い。人間の死刑制度が彼を殺し、彼同様の神により使わされた人々を殺してしま

> っているのですよ。それでも、死刑制度に罪がないとおっしゃるのでしょうか。

> 死刑制度が裁かれなくてもよい制度だとおっしゃるのでしょうか。神の批判を聞

> き取ってください。神の痛烈な死刑制度への批判を聞き取ってください。聖書全

> 体に流れる思想ですよ。

 イエス様が処刑されたのは、死刑にした人々が神の御心にしたがわずに、勝手に行ったからであって、死刑制度自体が悪いわけではありません。

 この点、厳密な区別が必要です。

 「歴史上、ある制度を利用して、誰かが間違ったことを行った」→「その制度は間違いである」という論の立て方には無理があります。

 同じ論法でいけば、「イエスは裁判の制度によって処刑された。だから裁判制度は裁かれるべきである。」と結論しなければならなくなります。

 

> > (2)イエスは裁くこと命じておられる

> >  聖書において、相矛盾すると見える教えがあるならば一箇所だけから結論を出す

> > ことはできません。

> >  また、すでに述べましたように、新約聖書において、パウロは、国家が処刑する権

> > 威があることを認めており、新約聖書だけを見ても、そこから「あらゆる裁きは間違

> > いである」という結論を導き出すことはできません。

>

> 私も、神による死刑制度はあるのだと信じています。ところが、人間は神の真意

> を完全に間違いなく受け取ることのできない不完全な存在です。

>

> 例えば、死刑に定められている人の罪を神が完全にお許しになっている場合、そ

> の人は死刑の罪人ではありません。ところが、人間の裁判官はそれを読み解くこ

>とはできません。神の法は、神による生きた、配慮と裁量でなされるのです。

 

 「神の法は、神による生きた、配慮と裁量でなされる」ということ自体に問題はありません。

 しかし、その神の配慮と裁量すらも、「神の真意を完全に間違いなく受け取ることができない不完全な存在」である人間は「完全には」理解できないのですから、人間は何事も判断できないということになりますね。

 そうなれば、死刑制度だけではなく、裁判制度そのものが成立できなくならないでしょうか?

 「人を裁くことはまったくできない。なぜならば、人間は神の真意を完全には理解できないから。」ということであれば、裁判そのものが不正です。

 そうなれば、どのような犯罪も裁くことができなくなりますね。

 「人間の認識能力の不備」を持ち出せば、死刑判決だけではなく、いかなる判決も、「神の真意」を誤解して決定する誤りを犯す可能性があるのですから、人間は他者をけっして裁くことはできないということになります。

> キムヒョンヒさんの事例をどう思われますか?彼女は、北朝鮮の思想により間違

> って多くの人々の命を損なってしまいました。ところが、韓国政府は、彼女の罪

> を許し、彼女は、新しい人としての人生を送っています。ここに、神の業が現れ

> ているとはお思いになりませんか?

> 神の意志が、述べ伝えられているとはお感じになりませんか?

 キムヒョンヒさんの事例と、私的な怨恨や金銭欲、快楽から人を殺害することと同列には置けません。北朝鮮は、韓国に対して、一つの戦争行為を行ったのです。彼女は政府の命を受けて戦争行動を遂行したということになり、通常の殺人と同列に置くことはできません。このような混同は厳に避けるべきです。

 彼女の場合、死刑が免除されたのは、彼女自身が、北で生まれ、北以外の世界を知らずに育ち、完全に北のマインドコントロールを受けていたこと。それゆえ、真実を知る機会を持てなかったということ。そして、彼女のテロ行為は、彼女から出たものではなく、北の政府の指令によるものであること。このような点から、同情できる余地があると判断したからではないかと思います。(しかし、事実、韓国では一度死刑判決が出ています。韓国政府は、彼女の行為を死に値するという判断を一度下しています。ただし、彼女の背景を考慮するならば、恩赦に値するという判断を国が下したのだと思います。)

 

 このような事例と、最近日本において起きた宝石店員焼殺事件(宝石を盗んだ犯人が顔を見られたからという理由でガソリンをかけて6人の女性を焼き殺した)の犯罪とを同列に置くことはできません。

 先ほど触れましたが、あなたが仰るように、人間は、神の真意を完全に知ることはできません。しかし、もし、「完全に知ることができないのだから、死刑制度は反対だ」ということならば、「完全に知ることができないのだから、あらゆる裁判制度も反対だ。」としなければつじつまが合いません。

 神の真意を誤解したために、裁判によって人間が社会的に抹殺されたり、名誉を毀損されたりする事例は枚挙にいとまがありません。例えば、松本サリン事件によって冤罪を受けた河野さんの例があります。

「だから、裁判制度は間違いなのだ。このような悲劇を生まないためにも、裁判制度を廃止し、あらゆる裁きを廃止しよう。」といえば、社会はどうにも成立できなくなります。

 

 

 




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