聖書は重層的に解釈できない

 

<ご質問>
いつも富井先生の聖書講会にはもっともだと思わされています。最近の税金と献金に関するエッセイは本当に参考になりました。ありがとうございました。
さて、私は聖書は聖霊の導きにより書かれているため一種類の意味だけではなく多様な意味を含んでいると思います。過去にすでに成就した預言などをただの教訓などとして片付けてしまって良いのかという問題があります。特に終末預言、マタイ24章や黙示録の問題。こう考える理由として聖書は信仰の書でありそれを読む者や、その者の状態、さらに言うなら各人の霊性によって解釈が変わってくるからです。預言などの私的解釈は厳禁でしょうが聖書の重層的解釈は否めないのではないでしょうか。

<お答え>
HPをごらんくださりありがとうございます。

「さて、私は聖書は聖霊の導きにより書かれているため一種類の意味だけではなく多様な意味を含んでいると思います。過去にすでに成就した預言などをただの教訓などとして片付けてしまって良いのかという問題があります。特に終末預言、マタイ24章や黙示録の問題。」

たしかに、聖霊は、各人にそれぞれ同じ聖書の個所から様々なことを教えてくださいます。しかし、だからと言って、「聖書に多様な解釈が可能である」という結論がただちにここから導き出せるとは言えません。

聖書の様々な個所から、その書かれた本来の文脈とはまったく無関係な教訓を示されることはあります。聖霊は、様々な方法で人を導かれるからです。例えば、アウグスチヌスは、たまたま街路で遊ぶ子供たちの「取りて読め。取りて読め。」と言う言葉に促されて聖書を開いて回心しました。まったく脈絡も何もない聖句から、救いに導かれた人もいます。

しかし、こういう事実があることと、聖書を文脈や歴史的背景を無視し、個人個人の主観を優先して解釈してもよいかどうかは、まったく別の話です。

(1)聖書は神の絶対の基準である

聖書は、人間の思いと行いを矯正するために書かれた書物です(第2テモテ3・16)。

私たちの心に浮かぶ様々な思いや、外から入ってくる様々な教えをふるいにかけて、正しいものだけを選択させるために与えられたものです。

しかし、もし、そのふるいの目が粗すぎたらどうでしょうか。何でもかんでも素通りしてしまいます。

もし、聖書に重層的な解釈が可能であるとしたら、それは、ふるいにはなりません。ゴムでできた物差しは物の長さを測る道具にはなりません。オリンピックで時間を測る時計には、厳密さが要求されます。

神は、私たちが主観によって動かされることがないようにと、厳密な基準として聖書を与えてくださいました。世の教えに振りまわされたり、様々な異端の教えに惑わされることがないようにと、神の御言葉を書物として残してくださったのです。

それゆえ、私たちは、ギリシャ語やへブル語の語義を厳密に調べ、聖書の時代背景を細かく調べて、神が語っておられることを客観的に正確に理解しなければなりません。聖書を神が与えてくださった絶対の基準として、細心の注意を払って取り扱わねばならないのです。


(2)聖書はイエスの証言書である

「聖書は、わたしについて証言している」(ヨハネ5・39) とイエスは言われました。聖書は、イエスが神の子であり、救い主であることの証言書です。

そして、証言者は使徒たちです。

「あなたがたは、これらのことの証人です。」(ルカ24・48)

イエスがじきじきに任命された証人の手によるので、聖書には絶対的な価値があるのです。

じきじきに任命されたのではない私たちは、その証言書を読む者であって、それゆえ、その証言書を勝手に解釈する権利はありません。

裁判において証人の証言を聞く人々は、それを努めて客観的に、相手が何を言おうとしているかを正確に理解しようとし、細心の注意を払って聞こうとします。

それと同じように、いや、神の御言葉であるがゆえに、最大限の注意を払って、相手の言わんとしていることに耳を傾けなければなりません。心をからっぽにして、へりくだり、自分を無にして、恐れを抱きながら、聞くべきです。聖書は、自分の考えが先にあって、そこに読み込みをしていくことが許されるような軽い書物ではないのです。

「過去にすでに成就した預言などをただの教訓などとして片付けてしまって良いのかという問題があります。特に終末預言、マタイ24章や黙示録の問題。」

まず、はじめに、「ただの教訓」と言われますが、その教訓は「神からの」教訓なのです。私たちは、どうして「神からの教訓」で満足できないのでしょうか。

私たちは、「聖書を絶対越えない」という大原則を守らねばなりません。

どんなに、「えっ?マタイ24章は過去のこと?それじゃあ、大患難はこれから起こらないの?そんな現在の出来事と無関係な解釈ってあり?」と思えても、聖書がそのように述べているならば、私たちは、「教訓」で満足すべきです。

私たちは、ヨナの預言が、紀元前のアッシリア人に対する預言であったことに満足しています。それでは、どうして、マタイ24章の預言が当時のイスラエル人に対するものであったことに満足できないのでしょうか。

語句の厳密な意味を探り、歴史的背景、前後の文脈、聖書の全体的教理との調和などの様々な要素から総合的にマタイ24章を解釈するならば、これ以外に解釈のしようがありません。もし今日流行している大患難未来説がここから導き出せるならば、これらの様々な要素について納得のいく説明ができなければならないのです。

もしそれが不可能であるならば、その解釈は「読み込み」(=私的解釈)になります。どんなに、「それでは物足りない」と感じられても、私たちは、そのような自分の「印象」とか「感じ」を控えるべきです。

 

 

02/03/30

 

 

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