ハーザー誌奥山師の記事に対する応答(1)

 

以下、奥山師をO師とし、富井をTとする。

 

<O師>

 マルコーシュ・パブリケーションから、終末論に関してD氏の(以前の質問者諸氏をA氏、B氏、C氏としたので、今回の方はD氏とする)質問が送られてきたので、お答えする。

 何よりもD氏が『ハーザー』誌を読んでおられることは喜ばしい限りである。

 というのは、もしD氏が、私の知っているその人、であるならば(マルコーシュからは、名前が明らかにされずに質問が送られてきたので)、改革派神学を身につけた有能な神学者で、極めて真面目な、聖書に忠実な牧師であるからだ。

 その種の牧師が『ハーザー』を読んでいるということは、読者層が拡大して来たことで、しかも、D氏のような高度な神学者にまで至っているわけで、誰が喜ばずにいられようか、という心境である。

 

<T>

まず、奥山師は、のっけから私を、同姓の改革派の著名な神学者と誤解しているが、これは、対論をする者としては基本的なミスであり、また、この対論をアレンジしたハーザー誌の責任である。なぜならば、師はこれからずーっと私を改革派の中で教育され、育ってきた人間とみなし、私にとってはどうでもよいような改革派のグループの問題の指摘と批判に多くのページを割いておられるからである。

私が、聖書に基づいてポスト・ミレを考えていると断っているにもかかわらず、奥山師の議論の大半は、聖書からの論証というよりも、師がかつて所属しておられた改革派の考え方に対する師の一般的な考えと批判によって占められているため、残念ながら、今回の応答にはほとんど見るべきものがなかった。私は、改革派に属する者ではなく、改革派の神学校を出た者でもない。私が育った環境はどちらかといえば、福音派であり、師が指摘するような「改革派の本ばかり読んできた」人間ではない。

私たちの信仰の最終権威は聖書にある。そして、私たちが聖書を読む際に基本としなければならないのは、人間の感覚や感情や主観ではなく、聖書そのものが何を語っているかということにある。

師は、現在、世界においてサタンが縛られているなんてことは信じられない、コソボ紛争、ナチスのユダヤ人大虐殺、スターリンの大虐殺など…を挙げ、これでも現在が千年王国であるなんて信じられますか、と言い、読者の感覚や主観や常識に訴えておられる。しかし、どんなに現代の日本に住む我々が感じ方において一致していたとしても、我々の感覚は絶対の基準ではないため、正しい聖書理解を得るための決定的な役割は果たさない。問題は、聖書の他の個所において、「サタンの縛り」はどのようなものであると述べているか、ということである。聖書は、聖書によって解釈しなければならないからである。聖書が神の言葉であり、絶対の権威であると主張するからには、聖書以上の基準を据えてはならない。

例えば、ある会社の創設者である社長が遺言を残して亡くなったとしよう。生前、その会社では、何かの決定を行う際に、最終判断は最終権威者である社長が下していた。何か難問があると、彼らは社長にお伺いを立てた。しかし、社長が亡くなって、社長の遺言だけが残った今、社員は遺言に頼って後継者の選定や、社長亡き後の会社の基本運営方針について判断するだろう。さて、遺言にはかなり理解に苦しむ個所があった。社長に聞きたくても、聞けない。社長以上に権威のある者が会社にいないので、社長の遺志を正確に汲むには、他の者の意見を聞くわけにもいかない。その場合、普通、社員が取る選択は、生前社長がその問題について何と言っていたか。または、社長の日記とか、言行録とか、著作などを調べて、社長の考え方を調べることである。

真に神を最終権威として崇めるというのは、このように、(神は亡くなったわけではないが)神の遺言(testament)である聖書の中でわかりにくい個所があれば、それについて他の聖書の個所を調べるということである。自分の気持ちとか、感情とか、主観を優先させるのは、神を最終権威として崇めていないことなのだ。

さて、聖書は、「サタンの縛り」とはどのようなものであると述べているだろうか。

聖書は聖書によって解釈するという原則を適用するならば、黙示録20章1-3節で言われている「縛る」という言葉が、「サタンの活動を完全に抑制する」ことを必ずしも意味していないことは明らかである。なぜならば、他の個所において、サタンはキリストによってすでに武装解除され、束縛されていると述べられているからである。

「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」(コロサイ2・15)。

御存知のように、凱旋の行列に加えられてさらしものとされた捕虜は、縛られて、抵抗できないように武装解除されていた。サタンや悪霊どもは、キリストによってこのように「すでに」縛られているのだ、とパウロは述べているのだ。

「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」(エペソ4・8)。

ここでも、パウロは、「キリストはサタンや悪霊どもを捕虜とした」と述べている。しかし、同時に、同じエペソ書において彼は、サタンとの戦いがあるとも述べている。

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6・11−12)

私たちの常識からすれば、「捕虜となった者がどうして戦うべき敵なのか?」と考えられるわけであるが、聖書は、サタンのイメージを「捕虜」でありながら、なおかつ「敵」でもあると明言している。私たちは、自分の常識によって結論を出してはならないので、この二つのイメージを調和させなければならない。さて、どのように調和できるのだろうか。

 

それは、「サタンは確かに捕虜となり武装解除されているのだが、なおも限定的な活動を許されている」ということ以外にない。事実、黙示録20章1節では、御使いがサタンを縛るための鎖を持っていたと述べられており、「縛る」という言葉’εδησενは、他の個所を見ると、必ずしも完全な抑制、完全な自由剥奪を意味していない。この言葉が使用されているマルコ5章3,4節では、ゲラサの狂人は鎖で縛られていたと述べられており、また、マルコ11章2,4節では、ろばの子がつながれていると言われている。どちらも、まったく身動きが取れない状態を述べているのではなく、鎖によって行動の範囲が限定されているということを示すのに使われている。

 

サタンは、現在キリストによって首に鎖をかけられているが、それでも、その鎖の届く範囲内で世界を惑わし、我々に攻撃を仕掛けている。彼は我々に悪さをするが、しかし、縛られているので、我々が彼に攻撃を仕掛ければ、彼の所有している魂や国土を奪い取ることができる。イエスは、次のように言われた。

 

「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです」(マタイ12・25-29)。

この言葉を証明するかのように、遣わされた70人の弟子たちが、喜んで帰ってきてこう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」(ルカ10・17)。強い人であるサタンは縛られているので、イエスの御名の権威を用いれば、悪霊ですら言うことを聞く。

 

プレ・ミレは、黙示録20章は将来のことであると解釈し、「サタンは縛られて自由がきかなくなり、クリスチャンが伝える福音は何にも妨げられることがなく、全世界がキリストに服従するようになるのは、未来の千年王国においてである」と考えているが、聖書は、現在すでに、サタンは縛られ、自由を奪われ、力を失っているので、我々には敵のあらゆる力に打ち勝つことが可能であり、彼は我々に害を与えることはできないのだ、と述べている。

「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません」(ルカ10・19)。

これだけはっきりと、クリスチャンの現在の勝利について約束しておられる以上、それを将来の出来事と解釈する必要はない。

しかし、ある人は、「それでは、黙示録20章の『底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して』というのはどう解釈するのか、これは、明らかに完全な活動停止を意味するのではないか」と言われるかもしれない。しかし、聖書は、サタンや悪霊は、「現在封じ込められている」と教えている。ペテロは次のように述べている。

「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました」(第2ペテロ2・4)。

しかし、同時に、彼は、サタンはクリスチャンを攻撃しようと徘徊していると述べている。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」(第1ペテロ5・8)。

聖書によるサタンのイメージは、「幽閉された者」であると同時に「歩き回る者」である。それゆえ、黙示録の「閉じ込められた」ことがそのまま「完全に活動できない」ことを示していると結論できない。聖書は聖書によって解釈するという原則を尊重するならば、私たちは、これらの2つの姿を調和させなければならない。

それは、やはり、「サタンは神によって自由を束縛されているが、それでもなお限定的な活動を許されている」ということなのだ。

 

 

 

 




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