ヒューマニズムの根底は非合理である
カントは、「あらゆる物を創造の文脈で見てはならない。物を見るときに、その物の背後にある何らかの意志とか意味とかの文脈を排除して見なければ、真にものを見たことにはならない」と言いました。
たしかに、「人間は万物の尺度である」という前提を立てると、対象物を「被造物」として見てはならないということになります。
被造物として見れば、蜂と花の関係は、「蜂の蜜集めによって、花の受粉が促されるように、神は蜂をお造りになったのだ。また、花は蜂に蜜を提供して、彼らを引き寄せ、自分の受粉に役立つようにと、神は花をお造りになったのだ。」と考えることができます。様々な植物、昆虫、動物の間にある共生関係は、創造の文脈で見ると、すっきり解釈できます。
しかし、神の存在を前提とできないヒューマニストたちは、対象をこのように見ることはできません。蜂も、花も、偶然に共生の関係を作り出しているのであって、背後に何らかの計画があったわけではない、としか見ることはできません。
なぜならば、もし、対象の背後に創造の文脈を設定すると、「万物の尺度は人間である」という大前提が崩れてしまうからです。「この世界が創造者によって造られたものであるならば、どうして、我々は、万物の尺度だと宣言できるだろうか。そのような宣言は僭越だといわれないだろうか。」と告白せざるを得なくなるのです。
そのため、ヒューマニズムにおいて、この世界に存在するあらゆる物は、それぞれが完全に独立していると考えなければなりません。その背後に何らかの文脈があると仮定することは絶対にできません。
しかし、そうなると、ここで一つの致命的な問題が生じます。
それは、「もし、万物がそれぞれ互いに独立しており、背後にいかなる計画も意図的連関も存在しないのであれば、どうして、ヒューマニズムは、世界観を持てると主張できるのか。世界観は、それらを互いに結びつけてあたかもそれらの間に何らかの連関があるかのように見なさねば作り上げられないのであるから、世界観を作ることは、自分の立てた前提と矛盾することをしていることにならないだろうか。」という疑いが生じるのです。
事実、ヒューマニズムは、「万物の構成者は神ではなく人間である。」と主張するのですが、そもそも、構成すること自体が、個々の事物の背後に文脈を設定することになるわけですから、『個々の事物の背後にいかなる文脈も存在しない』という前提と矛盾することをせざるを得ないのです。
しかし、彼らはこのことをやったのです。
そして、人間が構成した世界こそ真の世界であり、その世界に当てはまらない事実は、すべて非合理であると断定するのです。
創造主を否定して、万物を「裸の事実
brute factuality」として認識することによって、万物はバラバラになります。そして、このバラバラになった世界をそのままにしておけば、人間は科学も社会も組織も不可能になるので、それらに正当性を与えるために、「神は脇においておいて、我々が、これらのバラバラな個物を寄せ集めて意味を与えよう。」と言い出したのです。
つまり、人間は、再構成者=神になったのです。
さて、この「神」は、きわめて非寛容です。
彼の構成した世界に寄与しない事柄をみな「非合理」として切り捨てます。
万物の背後に流れる「人間の文脈」にそぐわないものは、すべて「虚偽」であり「無価値」です。
自然主義神学が、聖書の奇跡を「非合理」として片付ける理由はここにあるのです。再構成者としての人間の王座を脅かすものは、すべて「ばかげた虚構」であり、軽蔑の対象です。
「俺達が作った世界に『処女降誕』はそぐわない。だから、それは『非合理』であり、軽蔑すべきである。」と述べる人々に対して、我々は、「君達が作った世界が正しいと誰が証明できるのか。そもそも、君達が立てた『万物は裸の事実である』という前提に従えば、それらを結びつけて世界観を作ることは違法ではないのか。」と言います。
もし、ヒューマニストが、「万物は創造されたものではなく、それぞれいかなる背後の計画もなく存在する」と主張するならば、彼らは、「だから我々は、これらのバラバラな個物を結びつけて存在論の体系を作ったり、世界観を作ったりすることを諦めなければならない。」といわねばならないのです。
それを、「いや〜、我々は、あえて、これらを結び付けて世界観を作ろう。たとえ、自らが立てた前提に矛盾する行為であろうとも、我々にはそのようにする権利があると主張しよう。」と言い張るのです。
ヒューマニズムは、その根底において、非合理的です。
非合理を持ち出すことができなければ、科学したり、組織を論じたりすることができないのですから、彼らは、僭越なのです。
非合理をごり押しする者の前提を攻撃せず、彼らに気に入られようとして、彼らの土俵に入って、キリスト教を売り込もうとしても無駄です。「人間だけで成り立つ世界」の中でキリスト教が生きる余地はまったくありません。
もし、彼らの土俵の中に入っているキリスト教があるとしたら、それは、関取として入っているのではありません。彼らは、ただの太鼓持ちなのです。