安息日について

 

<ご質問>

安息日について、ご意見を聞かせていただきたいのですが。

「安息日を聖別せよ」という言葉は、聖書の中に見つかるものです。

神が6日間で世界を創造し1日休んだという、創世記の記述に根拠を持っています。

これは本当にそうしなければならないのでしょうか?

十戒のうち、

「私以外のどのものも神とするな。」

「偶像をあがめるな。」

「私の名を偽りのために呼ぶな。」までの言葉の御利益は、半端なクリスチャンの私でも、経験したことがありますが、「安息日」についてはありません

(「ありません」というよりは、日曜日=お休みの有難さは、洗礼を受けるずっと以前の子供のころから知っています)。

また、「人を殺してはいけない」とか、「父母を敬え」とかは、クリスチャン以外の方でも、

本来、人間がもっている良心で理解できます。

ところが、「安息日」の概念は、良心では理解できないですよね。

「安息日を聖別せよ」は、その根拠が聖書以外に思い当たらない、

私にとってもっとも理解しがたいものです。

まあ、ここまでなら、

「神が命じたことだから、無条件に信じればいいのだ」で済むかもしれません。

ところが、この「7日」という周期が世界の多くの国に採用されていることが、これの上をいく不思議な事柄なのです。

確かに「聖別」はされていませんが、キリスト教がさほど盛んでもない日本や中国でも、曜日制によって社会が動いています。

不思議とは思いませんか?

暮らしていく上で「5日働いて1日休み」とか「10日働いて1日休み」でも、そんなに不都合があるとは思えません。

実際、そのような生活ペースを持っている人も少なくないし、日曜日に急な仕事が入った時は私でも働きます。

日本の場合は、明治政府が欧米に習ってこの制度を採用したそうですが、何でもかんでも欧米の制度を採りいれたわけでもなく、それなりに取捨選択しています。

例えば、西暦は取り入れていませんよね。

今でも官公庁の文書では、すべて「平成○年」で刻印されています。

しかしながら、日曜日の官公庁は、多くが休みです。

そして、どこの国でも、この「7日周期」を取り入れたことによる小さな混乱はあったでしょうが、この制度の採用によって、戦争が起こったなどは聞いたことはありません。

私は世界の国々が、なぜこの「7日」という周期を採用しているのか、理由が分かりません。

いくら欧米の力が強かったといっても、生活に密接にかかわることで、こんなに抵抗なく受け入れられている事柄は他にあるでしょうか?

「人間の生活ペースに7日周期は合っている」とかいうのは、なんとなくそうかなと思わないでもありませんが、

「生物学的な7日周期」は、私の知る限りでは医学的に証明されていないようです。

まあせいぜい、女性の生理周期が7の4倍である28日周期の人が比較的多いということぐらいでしょうかね。

これでもこじつけっぽいですが。

神を信じている人もいない人も、

良心にあふれた人でも乏しい人でもこの制度を受け入れていて、

大胆に言えば、十個の戒めのうち一番訳の分からないものがもっとも普及していると言えるかもしれません。

聖書の言葉の成就といえばそれまでですが、誠に不思議なことです。

どのようにお考えになりますか?

 

<お答え>

 私の考えでは、キリストが十字架にかかって万物が神と和解して以来(コロサイ1・20)、ものそのものや時間そのものに「聖俗の区別」は撤廃されたと思います。

 この動物は聖い、この動物は汚れている、この日は聖日、この日は普通の日という区別はもうないと思います。ペテロは、夢の中で汚れた動物を食べるように命じられました。神は、すでにこれらの動物は清められていると言われました。パウロも、「ある日を重要だとする人もいるし、そうではない人もいる。それぞれ確信を持て。」と言っていますよね。

 ユダヤ人は、神の御前に聖い民で、異邦人は汚れた民であるという区別もありません。

 新約聖書の時代には、「民族的な支配方法(ディスペンセーション)」ではなく、「超民族的な支配方法(ディスペンセーション)」 を神が採用しておられるのは明らかです。

 今日、世界中のどの民族であっても、キリストを信じる者は神の民であり、聖なる民です。

 また、キリストを信じない民は、非聖なる民です(キリストの血によって洗われていないので・・・)。

 神は、旧約聖書の時代には、聖と俗、善と悪の区別が存在することを教えるために、イスラエルに、具体的な動物などを用いて、実物教育をしましたが、キリストという実体が現われた現在では、それらの実物の区別は無意味です。

 聖日とそうではない日との区別も同じように、「時間は主のものである」ことを理解させるために設けられた区別であると思います。

 古代ユダヤにおいて、曜日は固定されており、今日のように、11日が何曜日になるか毎年変化するような暦を用いていませんでした。114日は必ず金曜日(過越の記念日)と定められていたのですから、今日、金曜日から土曜日にかけて安息日とする考えは間違っていると思います。

 さて、しかし、実際に人間の肉体の仕組みや、自然界の秩序ということを考えると、この6日労働+1日安息というリズムは、きわめて合理的であるように思えます。

 昔、勤めていた会社のエレベーターで、中堅社員が、「6日働いて1日休むってのは、人間に合ってるリズムだよねえ。」などと仲間と話しているのを耳にしたことがあります。

十戒において、「6日働いてすべての仕事をなし、1日仕事を休みなさい。それは、神が創造においてそのようになさったから。」と書かれてありますが、神は、人間に被造物支配を委ねる際に、ご自分で模範を示されたと思います。神は時間を超越して、何事でもできるお方ですから、わざわざ6日かける必要はありません。絶対者は、一瞬で完璧なものを創造する力があります。6日働いて、1日休まれたのは、人間が同じようにして、地球上に神の文明を建設しなさい、と模範となるためだったと考えることができます。ですから、このリズムは人間や自然界にとって、合理的なリズムなのだと考えます。

 

まとめ

(1) 特定の曜日が聖で、それ以外は非聖(俗)であるという区別は、旧約時代の「聖俗についての実物教育」の一部であり、今日、キリストが万物を神と和解させてくださったのであるから、すべて撤廃されている。つまり、物や時間それ自体はすべて聖なのだ。ただし、それを用いる人間の意志によって、その物や時間は、聖になったり、俗になったりする。包丁は、料理を作る道具であるが、人を殺すことができる。それゆえ、日曜日が聖日であるとか、金曜日から土曜日にかけて安息日であるという区別はもはや存在しない。

(2)しかし、人間や自然界は、神の模範によって6日働いて1日休むように創造されているので、そのリズムに従うことが求められている。聖書において、安息とは、救いの象徴である。それゆえ、1日を完全な休みとし、その日をもっぱら霊的な黙想、礼拝、伝道、祈り、霊的書物の読書、教会活動、病人の訪問、治療などに用いるべきである。 

 

 

 




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