ホームスクーリングは中途半端では意味がない

 

 ジョン・ゼンズやジョン・マッカーサーは、「我々の目標は人の魂を救うことであって、制度を変えることではない。モーセ律法はイスラエルに対するものであって、新約時代の我々のためではない。」という主張をしています。ゼンズは、ディスペンセーショナリズムについて批判しているにもかかわらず、ほとんど彼らと変わらない意見になっています

http://www.cet.com/~dlavoie/solo.christo/theology/nct/covenant.html)。

 

 ヴァン・ティルの「キリスト教の目的は、この世界のあらゆる部分をキリスト礼拝の場と変えることである」との言葉を真摯に評価し、「では、制度については何を基準とすればよいのか?」という疑問にまじめに答えようとするならば、どうしても、聖書から諸制度を立て直す以外にクリスチャンには方法がない、ということになりま

す。

 

 どのようなシステムであっても、この世界はすべて神によって創造されたのですから、神の御言葉を基準としないでもよいという考え方は絶対にできません。

 

 ホームスクーリング運動が、単なる「魂救済運動」の一部でしかなければ、ボブ・ジョーンズ大学の教科書(ボブ・ジョーンズ大学の教科書のすべてが悪いわけではない)をそのまま受けとって人種差別を肯定するような大人に育つことになるのでしょうか。恐ろしいことです。

 

 律法は、神の「永遠の」御心を示しており、それ自体はよいものです。律法を否定するならば、クリスチャンから生活の指針は大部分失われてしまい、またぞろ、自然法の支配する世界になってしまいます。

 

 ホームスクーリングで育った人々が、自然法を受け入れて、またぞろ、理性の自立の異端を招来し、またぞろ、ヒューマニズムの成長を許すならば、「クリスチャンは歴史を繰り返す馬鹿か」と言われてもし方がありません。

 

 ジョン・ゼンズやジョン・マッカーサー流の半カルヴァン主義ではだめなのです。

 

 しかし、こちらが徹底した意見を述べると、「過激だ」とか「行き過ぎだ」とか言われてしまいます。

 

 そんなに神政政治が怖いのでしょうか?

 

 そんなに政治や経済や文化がキリスト教によって支配されることが怖いのでしょうか。

 

 「神の支配を恐れるあなたは神を愛していますか?」と聞きたいところです。

 

 

 

 




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