前千年王国説の歴史
アイアン・マーレーの「The Puritan Hope」Banner of Truthには、前千年王国説の起源について興味深い説明があります。
前千年王国説は、アウグスチヌスにおいて決定的に否定され、その後、アナバプテストの一夫多妻主義者において復活し、カルヴァンやルターによって徹底的に糾弾されました。奥山師は、Chiliasmという言葉を「千年王国」と解釈して、「カルヴァンやルターは千年王国説を否定し、カルヴァンはそれを幼稚で論議にも値しないものであると述べた」と言いましたが、カルヴァンやルターは千年王国説そのものを否定したのではなく、「前千年王国説(Chiliasmは「千年至福説」)」を否定したのです。カルヴァンは、Chiliastを「キリストの支配を千年に限定する者」と呼んでいます。
17世紀になって数人の前千年王国論者が現われましたが、18世紀のリバイバル運動や海外宣教の主流はピューリタンたちだったので、前千年王国説を取る人々はほとんどありませんでした。近代海外宣教の火をつけたデイビッド・ボウグは、19世紀のはじめに、「前千年王国説は、教会史において異説(奇妙な見解)にとどまってきた」と述べました。
しかし、平信徒預言者ハトレー・フレアが1820年頃に前千年王国説に基づく預言を開始し、それは、大衆伝道者として圧倒的な人気を誇っていたスコットランド人エドワード・アーヴィングの心を捉えました。アーヴィングは、ユダヤ人クリスチャンベン・エズラの著作を翻訳して、それに200ページもの序論を加えて「栄光と威厳の中でのメシアの来臨」という本を1827年に出版しました。
彼の影響は、カルヴァン主義が強い地元スコットランドでは小さかったのですが、イングランドでは大きく、エドワード・グレズウェルやE・B・エリオットといった学者が現われ、彼らの影響でJ・C・ライルが前千年王国説になりました。また、アーヴィングがアイルランドに伝道旅行に行った際に協力者となったパワーズコート夫人の自宅で開かれたパワーズコート・コンファレンスに、J・N・ダービーがいました。ダービーは強力な伝道者であり、82年の生涯の中で、40冊の著作を残し、1,500もの集会を世界中に作りました。彼の影響を受けた一人がヘンリー・モーハウスであり、モーハウスの影響を受けたのが、歴代屈指の伝道者D・L・ムーディーでした。ダービーが与えた影響の中でも特筆すべきなのは、C・I・スコフィールドでした。スコフィールドは、その有名なスコフィールド・レファレンス・バイブルによって世界中の人々の心に前千年王国説を植え付けました。スコフィールド・バイブルはこれまでに全部で300万冊も出版されています。
アーヴィング自身は、教会から除名されて、その名を知る人々はほとんどいなくなりましたが、その前千年王国説は、世界中のキリスト教会を席巻し、今日に至っています。
前千年王国説がキリスト教のスタンダード化したのは、この2000年の教会史において、ほんのこの200年のことなのです。それまで、前千年王国説は宗教改革以前でも以後でも「異説」として相手にされていなかった教えであるということにはやくクリスチャンは気づくべきです。
本当のリバイバルは、前千年王国説を捨てるところから始まると思います。