いちゃもん人間への対処法
教会活動をしても、このようなインターネットでの活動をしていても、必ず「破壊癖」のある人間がやってくるものだ。
大学の学園祭のときに、サークル(聖書研究会)で、聖書に関する展示会を開いて、来客を招き個人伝道をしていると必ずと言ってよいほど、「質問があるのですが。」とやってくる者がいる。熱心に求めている人かと思いきや、話し始めると、自分の宗教を持っていてこちらを議論でねじ伏せようという目的を持っていることがわかる。
そのような場合、私たちは、「もし御自分の宗教をお持ちでしたら、早々にお帰りください。」とそれ以上の議論を断ることにしていた。
なぜかというと、彼らと議論しても、けっして実りはないからである。彼らはただひたすらに破壊をしようとやってきている。
もちろん、建設的な議論を望んでいる人も中にはいるだろうが、概して、挑戦的な態度で来る人間に福音に耳を貸そうとする人はいないものだ。
さて、彼らの相手をしていると、こちらの貴重な時間が奪われて建設的な活動ができなくなる。なぜならば、彼らは人と議論をしようとするのではなく、揚げ足をとって理屈でこちらを打ち負かそうとしているからである。
どんなに理を尽くして話しても、彼らはけっして納得しようとしない。なぜならば、彼らの背後には明確な信仰があり、結論が先にあるからである。だから、二人の対話は、議論ではなく、あくまでも戦争になる。
このような場合、つまり、神の福音に対して明らかに対抗的な態度を持つ人間に対しては、神の審判を望む以外にはない。神は、御自分が語っておられることに逆らう人間に敵対したもう。彼は明確な「神の敵」なので、和解は絶対にありえない。神が力ずくで、彼をねじふせる以外にはない。すなわち、聖霊の圧倒的な力で彼の心に対峙し、彼の心をへりくだりに導き、ついには彼に信仰を与え、心を180度逆転させるか、それとも、彼の頑固さに対して病気・死・発狂・離別・その他様々な苦悩によって報いるしかない。
一度福音の味をしめてその後に福音を棄て、キリストを裏切るような人間には立ちかえるチャンスは存在しない。彼には、永遠の刑罰しか残されていない。
しかし、まだ無知なるがゆえに傲慢になっている人間には、神が御自身の偉大さを示し、聖霊の祝福を味わわせることによって、回心するチャンスが残されている。
人間ができることは、聖書の真理を語り、後は「靴の底のちりを払う」以外にはない。どこまでも人を愛して、彼の回心を待つように求めるというのは聖書的な伝道の方法とは言えない。
「もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。」(マタイ10・14−15)
「主を愛さない者はのろわれよ!主よ、来てください!」(第1コリント16・21)