信仰はヒューマニズムの基本的ジレンマを解決する
ヒューマニズムには、2つの基本理念があります。
それは、「人格理念ideal of personality」と「科学理念ideal of science」です。
人格理念とは、超越者抜きで、人間が独自にすべてのことを解釈し、行動し、支配することを目指します。ヒューマニズムの理想とは、「人間だけで成り立つ自由の世界」です。神の掟に縛られずに、自由に生活したい、との欲望は、アダムに由来しています。彼は、「善悪の知識の木」からとって食べたいと思いました。つまり、善と悪とを自分たちだけで定義することを望んだのです。神ぬきの道徳の確立こそ人間の究極的な理想なのです。
科学理念とは、世界が超越者抜きで自律的に成立している機械論的世界であると考えようとします。世界は徹底して科学法則だけで動いており、宇宙は閉じられた系であって、それを越えて宇宙に影響を与える者はいないと考えます。それは、進化論のように、生物も世界も創造者抜きで自律的に成立したと考えるので、創造論を受け入れることはできないのです。
中世においては、自然万象の本質は精神にあるとされていました(*)。しかし、科学が発達し、物体の運動や性質などが明らかになるにつれて、「物体の運動は精神に影響されるものではなく、純粋に力学的な問題である」ということが明らかにされると、今度は、万象は法則で動いているのではないか、世界は時計のように機械的に動いているのではないか、そこには、人間の自由の入る余地はないのではないか、という宿命論が現われ始めました。どんなに道徳とか宗教がカッコイイことを言っても世の中強い者が勝って、弱い者は滅びる運命にあるのではないか、という言わば殺伐とした世界が見え始めたのです。
もともとは、ヒューマニズムの科学理念は、神からの自由を求める人格理念から生まれました。つまり、どちらも、人間に自由を与え、この世界を人間の王国にしようという「人間解放の神学」だったのです。しかし、科学理念を徹底させると、逆に人間は徹底した奴隷になることが明らかになりました。例えば、資本主義が発達し、市場原理が徹底されると、強い者だけが生き残り、弱者は浮浪者になる以外にない、となり、人間が思い描いたユートピアとはほど遠い世界になるのは明らかでした。マルクス主義はこのような「自然」と「自由」、「科学理念」と「人格理念」のジレンマを解決するための理論でした。
ヒューマニズムは、デカルト以来、このジレンマと格闘してきました。「神ぬきで人間だけで幸せに暮らせる理想郷」を目指して彼らは様々な理論を編み出しました。しかし、超越者を認めず、超越者に頼らなければ、科学理念が発達すればするほど、人間は自然法則の奴隷とならざるを得ないのです。神を認めるならば、人間は自然法則に縛られることはありません。非クリスチャンは、「力こそすべて」「世の中金じゃ」と言う傾向が強いですが、クリスチャンは、どんなに金持ちでも有力者でも、神の御心でなければ、事は成就しないということを体験的に知っています。また、逆に、どんなに貧乏で非力であっても、勝利者になることはできるとも知っています。だから、真のクリスチャンは、人間の力に頼らないのです。科学理念に圧倒されることはないのです。
聖書は、世界は機械論的な因果律に支配されているのではなく、倫理的因果律に支配されていると教えています。アッシリアは当時のスーパーパワーでしたが、ユダヤ人の町を包囲したときに、ヒゼキア王の祈りに答えて神がアッシリア軍を全滅させました。イスラエルが神の戒めに忠実であったときに、イスラエルは平和で他国に蹂躙されることはありませんでした。しかし、イスラエルが神の掟に逆らうようになると、イスラエルは他国の侵略を受けて悲惨な目に遭いました。
信仰こそ、科学理念の圧迫から逃れる唯一の道だと聖書は主張します。なぜならば、自然を超越した御方が、自然の法則や機械論的因果律を越えて働かれるからです。
しかし、神を否定して人間だけの王国=バベルの塔を築こうとする人々は、神の助けを受けようとしません。それゆえ、彼らは、自然の法則や機械論的因果律から解放されないのです。
カントは、人間の自由を叡智界に求め、いわば科学の法則が働かない領域を独自に作ることによって、科学理念の支配から逃れようとしました。ヘーゲルも、弁証法という世界解釈の方法の転換によって人間の自由を模索しました(**)。しかし、カントやヘーゲルが作り出した「人格理念」を尊重する世界観が、中世のローマ・カトリックのように、学問のあらゆる領域に影響を及ぼすにつれて、科学理念を尊重する人々からその思弁性を問題視する動きが現われました。実証主義者や、マルクスの史的唯物論などがそうです。
人格理念を追求すると思弁的になり、非科学的独断論になる。かといって、科学理念を追求すると宿命論的になり、人間に自由はなくなる。このように、ヒューマニズムは、2つの相対する理念の間に存在するジレンマに苦しめられてきました。
神を否定する以上、ヒューマニズムには解決はありません。
聖書的キリスト教は、自然法則や因果律を神のしもべと考えます。それゆえ、自然法則や因果律ががんじがらめに人間を支配することはありません。信仰は、人間をそこから解放します。神に依存するときに、人間は市場原理に縛られる必要はないので、自由です。ヒューマニストの雑誌編集者は、「売れなければ生きて行けない。きれいごとを言ってられない」と言って、ゴシップ記事などを出して販売増を計ります。彼は、神に頼ることができないので、市場原理の奴隷になるのです。しかし、神に頼ることができれば、市場原理に支配はされません。神が、イスラエルをマナで養ってくださったように、我々も養ってくださると信じることができるので、生計を立てるために悪事に手を染める必要はないのです。
また、神に頼る人は、思弁的になる必要はありません。彼は実証科学を尊重することができます。神は自然法則や因果律を定め、それに世界を支配するように委ねていますので、それを探ることは必要であると考えるからです。
カントのように、自然法則が支配しない領域を作って神秘主義に陥る必要はないのです。
(*) 中世においては、万物の本質は精神であり、物体の運動なども「精神的」に解釈しようとしていました。例えば、アリストテレスの天文学に従えば、天体は宇宙の中心に向う直線運動をしていると考えられていました。なぜならば、天体は「宇宙の中心に向う本能を持っているからだ」と考えられていたからです。人間が、腹が空くと食べたくなるように、天体も自分の「あるべき場所」に収まろうとするものであると考えられていたのです。この時代においては、あくまでもアリストテレスの世界観が中心であり、その世界観に基づいて現実の世界が「演繹的に」解釈されていました。しかし、近代になって、物事を演繹的に解釈するのではなく、観察と実験によって帰納的に探ろうとする近代科学が生まれると、物体は、このような「目的的な」動き方をするのではなく、単純に自然の法則に従って運動するのであるという機械論的な世界観が始まるようになりました。
(**)それまで科学は、自然を理解するのに、サンプルを取り出して、それを実験や観察によって分析する還元論的な方法を選択していました。しかし、この方法では、世界に存在する様々なものは無個性化してしまいます。つまり、A君もB君も原子や分子の集まりではないか、A君はB君と違うということにどのような意味があるのか、ということになる。実証科学を徹底させ、原理とか法則だけを求めると、万物を顔のない無個性のものと解釈せざるを得ない。そこで、ヘーゲル以降現われた人文科学の手法は、個人や個物をパーツに分けて還元論的に理解するのではなく、個人や個物を全体として見るようにしようとしました。A君とはどのような人かは、A君をパーツに分解して細胞を丁寧に調べても分からない。A君をトータルに見ることによってA君の本質が明らかになると考えました。人文科学は、物事の本質は全体にあると考えるのです。しかし、分析的実証的な手法を取らないため、そこには思弁的、宗教的、思想主導的になる危険がありました。それゆえ、19世紀の中ごろに実証主義からの反動が起こったのです。