律法の今日的意義
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ご質問>先生のお答えくださった、
>近年流行のキリスト教は、「キリスト教の契約性」を無視しています。
ということの中に、問題の本質があるのでしょうか。
>イスラエルは割礼を受けて生まれながらにアブラハムの契約に入りましたが、その
>契約の中に 異邦人も招き入れられました。新約時代になって、割礼は廃止されまし
>たが、バプテ スマがそれに取って代わりました。過越に代わって聖餐が導入されま
>したが、契約と いう意味においては、旧約も新約も一貫しているのです。
ということで、私たち異邦人もキリストにおいて、アブラハムの契約の中に入ったと
いう理解になるのですね。
ところで、割礼によってアブラハムの契約の中にいたはずのユダヤ人は、不従順という罪の中で、今や最初の契約から外されているのでしょうか。アブラハムから始まってモーセやダビデなどは、失敗もありましたけれども、悔い改め、神に従いつつ歩んだので、最後まで彼らは、アブラハムの契約の中にいたと思うわけですが、彼らはキリストを知りませんから、キリストに対する信仰によってではなく、神に従う従順をもって、アブラハムの契約の中にとどまったであろうと思うわけです。そして、そのような信仰のあり方で生きる現代のユダヤ教の人もいるかと思いますが、今やキリストがこられたゆえに、そういうあり方は認められなくなっているということで、ユダヤ人にも伝道がなされるわけですよね。そのように、契約は新旧を貫いて一本なのですが、旧約の契約と新約の契約の関係性において、明らかに変化していることと、変化していない事柄があるということの、具体的な内容が、私の中において、まだはっきり整理されていないようです。
パウロなどは、自他ともに認めるほど、律法に忠実なものであり、当然アブラハムの契約の中に自分がいるものと信じて、熱心に律法を行っていたと思うのですが、彼はかつてのそういう自分の姿を、
ピリピ3:4〜9
3:4もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を
頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。
3:5わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族
の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
3:6熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
3:7しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思う
ようになった。
3:8わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値の
ゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを
失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリスト
を得るためであり、
3:9律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰
に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためであ
る。
とかたり、旧約において、アブラハムの契約のなかにいるものに求められていた事柄、イスラエル民族であることや、律法の義を求めて行動することなどを、今やふん土のようだと語っています。神の契約の原理が変わるわけはないのですが、「キリストがこられた」ということにおいて、明らかに変わったものがあり、変わっていないものがある。その理解が私を含めて、キリスト教の中で、混乱しているのが実情なのではないかと思うのです。
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お答え>パウロが捨てたのは、当時イスラエルが誤解していた「律法によって救われようとする教え」です。旧約聖書はそのようなことをどこにも教えておらず、ホセアのように「義人は信仰によって生きる」とかアブラハムが信仰によって義と認められたという個所を引き合いに出しながら、パウロは、旧約聖書からこのことを説明しています。
神の契約の原理は一貫しており、それは、「恵みによる救い」です。
イスラエルの人々は、小羊の血による過越という恵みによってエジプトから救い出された<後に>律法を与えられました。
律法を守ったからエジプトから救われたわけではありません。
十戒の始めにも、「わたしは、あなたがたを奴隷の地エジプトから救い出した主である」と宣言されています。まず値無しの救いがあるのです。
律法授与の前提には、無条件の救いが存在するのですから、旧約聖書の宗教も現在我々が信じているのと同じように、「恵みによる救い」を主張していたのです。
律法そのものが、恵みによる救いを表しています。罪を犯せば、血によって贖われます。旧約聖書の宗教は、犠牲宗教であり、行為宗教ではありません。おびただしい数の動物が犠牲となりました。
さて、私たちがこの点を誤解しやすいのは、パウロが旧約聖書の原理そのものを捨ててしまったかのように受け取られるような書き方をしているためです。
「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。」と言われれば、「割礼」や「イスラエル人であること」「律法に対する熱心」そのものを否定しているように聞こえます。
しかし、パウロはこれらのものを否定しているのではなく、「律法による自分の義」を捨てたのです。そして、「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになる」ために、「それらのものを、ふん土のように思っている」ということなのです。もし律法そのものを否定しているならば、「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように服従しなさい。」(
1コリント14・34)とは言わないでしょう。また、「モーセの律法には、『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。 」(1コリント9・9-10)と述べて、モーセ律法を尊重しています。さらに、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)とすら述べています。当時のユダヤ人は、「律法による義」を主張し、旧約聖書の宗教とはまったく異なる宗教を信じていたのです。これは、単に律法についての誤解という教義上の失敗ではなく、本質的には、「自分を王とする偽王国」をたてていたという意図的な反逆であり、革命行為だったのです。その証拠は、彼らは王であるはずのキリストを迎え入れず十字架につけてしまったのです。「しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。 」(マタイ21・37-39)このような反逆のゆえに、ユダヤ人は、神の国から追い出されました。「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」(マタイ
21・43)しかし、彼らは、選びの恵みそのものから落ちたわけではないので、再び契約の中に戻ってきます。「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。』彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。 」(ローマ11・26-29)
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ご質問>>
「我々は律法から解放されたのです。我々は何にも縛られない自由の身と なったの>
です。」と叫んでいます。ディスペンテーション主義が語る、神の契約の、時代による変化という考え方の問題点は、実は神との新しい契約において、変わってはいないものを変わったのだといってしまっていることにあるのではないでしょうか。しかし、確かにキリストがこられたことにおいて、変わったこともある。その変わった事と変わっていないことの混乱が、この問題の根本にあるような気がいたしました。キリスト教が契約性ということを取り戻す為にも、新しい契約においてなにが変わり、なにが変わっていないのかということの理解と整理が必要な気がいたします。もちろん、それは私自身にもいえることです。
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お答え>ディスペンセーショナリズムは、たしかに旧約聖書と新約聖書の間に変化をつけるのですが、それだけではなく、さらに細かい時代区分(7つ)を行いその時代時代において異なる<排他的な>統治原理があると述べている点が問題です。例えば、被造物支配の命令は原初の時代にのみ適用されるとか、キリストの王権は未来の千年王国時代に限定されるとか。ディスペンセーショナリズムの影響を受けたキリスト教は、律法はもはや無効になったと考え、律法と恵みを対置させる傾向があります。
キリストが来られたことによって変わってしまったことと変わっていないことは何か、というならば、(1)「犠牲の型であるものが本体に置きかえられた」ということと、(2)「民族的なものが超民族的なものになった」ということです。
(1)キリストが来られたので、キリストの予型であった動物犠牲は不用になりました。
(2)ユダヤ人だけに与えられていた契約が異邦人にも与えられ、「ユダヤ人もギリシャ人もな」く、救いが超民族的になりました。
しかし、律法が無効にされたとか、恵みに対置されるべきものであるというような変化はありませんでした。イエス御自身が、「わたしは律法を廃棄するために来たのではない。律法の一点一画たりとも天地が滅びない限り地に落ちることはない。」と言われたのです。
これは、律法が今日でも有効であることを示しています。それでは、例えば食事規定や、割礼などを我々異邦人クリスチャンも守るべきかというと、そうではありません。「新しいぶどう酒は新しい皮袋が必要」なのです。新しい時代――救いがユダヤ人もギリシャ人もなく、「すべての国民」が「弟子」となるべき時代――において、ユダヤの地域的民族的律法は、その本質を残して、普遍的、超民族的な規定として受け取られねばならないのです。
このことは、パウロが手本を示してくれています。すでに挙げた1コリント
9章において、次のように述べています。「モーセの律法には、『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。」(1コリント 9・9-10)
これまで、ディスペンセーショナリズムの影響もあり、キリスト教は、神の言葉は、教会生活と個人生活だけに適用されるべきものと考える傾向が強かったのですが、社会全般がヒューマニズムによって崩壊の危機にある今日、私たちは、すべては神の規範に基づいて統治されるべきであると主張し、個々の領域について具体的に神の言葉を適用し、解決策を世界に示していかねばなりません。このような時代的要請もあって、これから、律法の本質的意味と、その具体的応用について熱心な研究がなされる必要があります。
02/02/16