教えの重要性
何を考えるかはお金とか建物よりも重要である。
例えば、東京の一等地にある古くからある教会は、ほとんど普遍救済主義(キリストを信じていてもいなくてもみな救われる)によって骨抜きになっている。このような異端的教義の侵入を許せば、教会は建物だけで存在意義はまったくない。
正しい福音を説いている小さな家庭集会のほうがすぐれた働きをしている。
それゆえ、教えが聖書的であるかどうかは最も重要なことであり、牧師や教職者は、この点にまず第一の関心を払う必要がある。
聖書的ではない教えは、教会を滅ぼし、神の国を停滞または退歩させる害悪であり、それを持ち込む人は、羊のなりをした狼である。
狼を防ぐことができない牧者は無能であり、罷免されてもしかたがない。もし信者が、牧師の教えがバルト神学や進化論などに汚染されていると気づいたら、充分な審議を経たのちにその牧師を追い出すべきである。