受肉

 

R・J ラッシュドゥーニー

 

 歴史の中で起こった最も美しい出来事は、主の誕生である。ルカの記述は、あたかも音楽を奏でているようで読んでいて楽しく愉快である。

 しかし、この「出来事」は、実際は、それほど素晴らしいものではなかった。宿には空きがなかった。イエスは、ヘロデの虐殺の手から逃れるためにエジプトに引きこもらねばならなかった。世はイエスを憎んでいた。イエスが働きを開始されたときに、兄弟たちはイエスを信じなかった(マタイ9・11)。多くの人々が、イエスを悪霊憑きと呼び、狂人扱いした(ヨハネ10・20)。イエスは子なる神であられた。世は彼を憎み、十字架につけた。これらすべてが、クリスマスの物語に含まれている。

 結局、神と神の法に対して徹底して敵対している世界は昔も今も、キリストを王として受け入れようとはしない。罪の力を打ち砕き、神の国を回復するためにやってこられたキリストは世の人々にとって邪魔者である。彼らは、イエスを亡き者としたい。彼らは同じように、イエス・キリストに従い、御国を建て上げることを望む人々を殺したり、屈辱を与えることを願っている。彼らは今でも、心のうちに猛毒を蓄えている。

 キリストと律法に対して忠実な者が、これまで人気投票で勝ったことはない。キリストと律法に対して忠実でありながら、なおかつ、人気も博したいと考えるならば、猛烈な攻撃にさらされることを覚悟しなければならない。世界は神の敵である。この戦いは、エデンの園において始まり、主の来臨と共に激しさを増した。

 それゆえ、主の生誕は、世々に渡ってくりひろげられてきた戦争がいよいよ激さを増したことを示している。それは、厳しく醜い戦いであるが、主はけっして敗北されることはない。我々の前には、困難と反対と憎しみが待っているだろう。しかし、その先には勝利のゴールが待っていることを覚えなければならない。「信仰こそ世に勝つ勝利である。」(第1ヨハネ5・4)

 クリスマスの時期に、また、いつの時期にも次の歌が口ずさまれる。それは、主が勝利者であるからなのだ。「世は喜べ。主は来られた。地は、王を受け入れよ。」 もしあなたが誰かに悪口を言われたならば、主のお姿を思い浮かべよう。主がどのような苦しみを受けられたかを思い返そう。そして、主が我々のために勝利してくださったことを思い致して喜ぼうではないか!

 「全地よ。主に向って喜びの声を上げよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来れ。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭にはいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」(詩篇100・1,2,4)「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ9・6,7)。アーメン。

 

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Rev. R. J. Rushdoony, The Incarnation, in Chalcedon Report No. 353, December 1994, p.2. の翻訳。This essay was translated by the permission of Chalcedon.




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