「前でも無でも後でもどれでもいい」という人間に気をつけよう
私の友人がポスト・ミレに猛烈に反対していたプレ・ミレの牧師に電話をかけ、ポスト・ミレについて説明した。
しかし、あれだけ反対していた彼が、友人の説明に対してこう述べた。
「う〜ん。前でも無でも後でもどれでもいいんじゃないですか?それぞれの信仰なんだし。」と。
友人は拍子抜けしてしまった。
「なぜあれだけポスト・ミレはダメだと反対していたのに、どうして手のひらを返すように、今まで述べてきたことと矛盾したことをこう平気で言えるのだろう。」と。
つまりカラクリはこうだ。
彼は、自分の説が不利であることに気づいた。
それならば、ポスト・ミレに立場を変えるのが当然なのであるが、自分の沽券もあるので、「私は寛容なんですよ」という姿勢を見せて、相手を煙に巻く作戦に出た。
「前でも無でも後でもどれでもいい」という人間には、3種類いるので注意しなければならない。
(1)まだ霊的な事柄がわからないのでピンとこない洗礼を受けて間もない幼児のクリスチャン。成長の余地あり。
(2)自分の個人的な欲望を優先させ、霊的な事柄に無関心なクリスチャン。年数を重ねていても、イバラやアザミばかりが生えてしまって、少しの実も結べない、一生を棒に振るタイプ。成長の余地なし。
(3)霊的な事柄がわかり、人を指導してきたが、自分の体面を重んじるあまり、間違いに気づいてもそれを公に認めたくないクリスチャン。晩節を汚すタイプ。パリサイ人のように、自分の王国を作り、それを邪魔する者をあらゆる手段で引き摺り下ろそうとする。主御自身を十字架につけることさえし兼ねない、神の国にとって最も有害な要素になる可能性が高い人種。
(2)と(3)のタイプのクリスチャンに共通するのは、「自己中心」である。そもそも、救われた時から最後まで、一貫して興味のあることは、「神の御国」ではなく「自分の王国」である。金儲けや、有名になることや、実力者と呼ばれたいならば、キリスト教界などにいないで、どこか実業界や政界にでも行けばよい。
こういった人間は、キリスト教に関わっていただきたくない。
キリスト教界にいないで、実業界でもいて活躍していただければ、こういった自分のプライドにこだわる人間の悪影響は、それほど大きくはない。しかし、彼らは自分を売り込むことが巧みであるから、キリスト教界においてもトップに立つことが多いので、悪影響は甚大である。
彼らは、自分の王国をかき乱す真理を語る人間が邪魔で邪魔でしょうがない。結局、彼らは人生の最後において、化けの皮がはがれる。神はそのような人間の本性を明らかにされる。