飲酒、聖餐、幼児洗礼について

 

>飲酒についていかがお考えですか。

これは、「野菜しか食べない」人、「肉を食べてもよい人」とあり、互いに裁き合ってはならないとあるように、クリスチャンの間でそれぞれ確信を持っている場合、その確信によって行動されるのがよいと思います。

しかし、歴史的に見れば、ルターもカルヴァンも酒を飲み、ピューリタンも酒を飲んでいました。ヨーロッパは現在でも、一般に、クリスチャンと完全禁酒は結びつきにくく、今日のキリスト教が完全禁酒を好むのは、ギリシヤ禁欲主義の系列に属する新プラトン主義が、敬虔主義キリスト教という仮面をつけて、完全禁酒をクリスチャンに押し付けたのが起源とされています。

私の意見では、神が創造されたもので、悪いものは一つもない。悪くなるのは、その利用法が悪い場合だけである、と考えています。包丁は料理に使えるが、人を殺すのにも利用できるように。神は、人間に禁欲させて自己満足に陥らせるために、この世界の様々な食べ物を創造されたのではなく、それを人間が楽しんで、神に感謝させるためなのです。

考えてみれば、お米や、大豆、きゅうり、トマト、リンゴ、メロン、梨、大根、…など、まさに人間が食べるために存在するとしか考えられないです。あるものは、生のままでも美味しい。例えば、バナナなど、そもそも人間が食べやすいように、形ができている。しかし、あるものは、加熱しないと、まずくて食べられない。ジャガイモなどそうです(だから、果物は、『神の恩恵のみによる救い』を象徴し、野菜は『神の恵み+人間の労働による文化建設』を象徴していると思うのです)。

しかも、人間の味覚に合ったものは、栄養価も高いということは、偶然の一致でしょうか。例えば、バナナがいくらおいしくても、そこに人間の肉体を養う働きがなければ、ただのおやつですが、しかし、神が創造されたものは、そこに、人間を育て、健康にするための、様々な隠れた栄養素があります。

すなわち、わたしは、食べ物や飲み物は、神の恩みとして与えられたものであるから、むやみに食べたり飲んだりすることを禁じるべきではないと考えます。もちろん、毒キノコなど、「異端などまがいものに気をつけろ」ということを教えるために、神が創造されたものもありますから、何でも食べても益になるとは考えませんが、しかし、ぶどう酒など、食用に充分になるものについては、神が人間が食べたり飲んだりするために何等かの意味を備えておられると思います。

例えば、フランス人は、アメリカ人と比べて同じように肉をよく食べますが、ぶどう酒をよく飲むので、そのポリフェノールの効果で、血液がサラサラになり、血管が原因の心臓病になることが少ないが、完全禁酒を教える教会が多いアメリカ南部の人々には心臓病になる人が多いとテレビでやっていました。

そもそも、イエス御自身がぶどう酒を飲まれたのです(「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います」)。当時のぶどう酒は今日の蒸留酒とは明らかにアルコール度数が違います。しかし、酔わせる効果はあったことは確かです。なぜならば、カナの婚礼のときに、客が「宴会も終わり頃になるとぶどう酒の味もわからなくなる」と言っているからです。

また、赤いぶどう酒は、まさに、イエスの血を象徴しているのですから、聖餐においてぶどう酒を飲むことを禁じることはできません。

ぶどう酒は、パンと共通点があり、どちらも「発酵」によってできます。聖書において、「発酵」は良い意味でも、悪い意味でも用いられ、「影響の拡大」を象徴します。罪に適用されると、「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」ということになり、御国に適用されると、「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」 ということになります。

ですから、聖餐式のパンを「種なしパン」だけに限る必要はないのです。「罪」という「種」が入るとまずいですが、「御国」という「種」が入ればよいのです。

このように、「種なしパン」は「罪のない生活」を象徴し、「種入れたパン」は「御国の勝利と発展」を象徴していると考えられます。

新約時代は、罪のパン種はキリストによって除かれたのですから、御国のパン種を採用して、種を入れたパンでお祝いするほうが相応しいと考えます。(もちろん、「罪は完全に取り除かれるべきである」ということを象徴するものとして種無しパンの使用を否定するつもりはありません。)

ちなみに、ゲイリー・ノースは、Moses and Pharao (ICE, TX) p166 n.33 の中で、旧約聖書では禁じられた「蜜」をも聖餐のパンに加えるべきであると述べています。

「筆者は、蜂蜜をつかって聖餐をしている教会を見たことがないが、彼らの多くは種を入れたパンを用いている。これは、矛盾している。パン種を用いているならば、蜂蜜も用いるべきである。キリストの完全な犠牲は、すでに歴史の中で成就している。カルバリの丘においてキリストは完全な犠牲を成し遂げられたということは、パン種(パン種を入れて完全に焼き上げることはそれ以前において禁じられていた)と蜂蜜(これは完全な甘味料であり、それ以前に禁止されていた)を使用すべきことを示している。蜂蜜は、苦菜に代わって使用されるべきである。教会は、象徴を用いる上で一貫性を欠いている。苦菜は一度もキリスト教の過越[訳注:つまり、聖餐]において使用されたことがなかった。しかし、旧い契約において要求されたこの苦菜に代わって、蜂蜜が使用されたこともない。これは、明らかに矛盾している。過越は、『味覚を通して感じ取られる』べきものであった。かつて苦かったものは、今は、甘い。この対照は、象徴においてはっきりと表現されてこなかった。救いは、象徴において首尾一貫して表現されてこなかった。蜂蜜が象徴する勝利の味は、教会の礼典の特質とはなってこなかった。教会が、もっと楽観的な終末論を信じて、歴史における教会の役割に関してもっと楽観的な見方ができるようになり、次第に教会の勝利が明らかになり、被造世界を回復することが明らかになれば、教会は、聖餐において蜂蜜を使用するようになるだろう。」

新約時代の礼典は、十字架による罪からの解放と絶縁の面だけではなく、復活によるキリストの勝利と世界の回復という面をも象徴すべきでしょう。

すなわち、

旧約時代→罪からの解放と絶縁→種無しパン、苦菜

新約時代→教会の勝利  →   種入れパン、蜂蜜

という図式が成立するでしょう。

そして、聖餐の飲み物は、種入れパンと同じように、「拡大、発展、勝利」を象徴する「発酵」によって作られる「ぶどう酒」が適当と言えると思います。ぶどうジュースよりもよいと思います。

>幼児洗礼についてどうお考えですか。

旧約聖書と新約聖書の連続性を考慮するならば、旧約聖書における割礼と、新約聖書における洗礼とは平行関係にあると考えることができると思います。割礼は、生後8日目に行われました。まだ救いを自覚的に受け入れられる年齢ではありません。

聖書は、必ずしも「理性中心」ではなく、むしろ、「恩恵中心」です。例えば、「律法を守る人の子孫は何と幸いなのだろう」とダビデが歌ったように、私たちが神に忠実であれば、私たちの子孫が私たちのゆえに恩恵を受けるとはっきり述べているのです。ひどい罪を犯していたユダの王様がすぐにでも滅ぼされなかったのは、ダビデのゆえでした。

「主は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、彼に約束されたからである。 」(2列王8-19

遊女ラハブは、その信仰のゆえに救われましたが、彼女だけではなく、その恵みはその家族にまで及びました。

「私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。」(ヨシュア218

クリスチャンホームの子どもたちは、そうではない家族の子どもたちよりも、はるかに恵まれた環境にあります。御言葉を聞く機会、それによって教育され、しつけられる機会に恵まれています。

モーセの契約は、「その子孫とも結ぶ」と言われており、聖書は、「血縁」とか「家族」「氏族」「民族」というような要素を重視しています。

理性を中心に置くならば、自分は自分、子どもは子どもということになるのですが、神様は必ずしもそのようには見ておらず、自分が信仰によって祝福されていれば、自動的に子どもも祝福の中にいると考えることができるのです。

アナバプテストのように、「幼児洗礼は無効だ」と言うのは、救いを理性中心にとらえているからです。これは、「神があなたの子孫を祝福しよう」と言っておられるのにもかかわらず、それを拒むことになるので罪なのです。

あくまでも、救いとは、神の一方的な恵みであって、人間の理性的判断は二次的なものでしかありません。

「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。

『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』と書いてあるとおりです。 」(ローマ912-14

つまり、まず、神が一方的に我々を選んでくださったから、我々は、理性をつかって信仰に入ることができたのです。その選びとは、我々が生まれる前からすでに決定されていたのです。

「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ14

我々がただ神の一方的な救いによって選ばれたのであれば、どうして、私たちの子ども達が、もっぱら理性によって救われると考える必要があるでしょうか。

神が我々を選んでくださったということは、我々の子どもたちをも選んでくださったということを意味しているのです。

つまり、神は、富井個人を選んだということではなく、富井家を選んだということなのです。

富井が契約に従って、子どもたちを正しく訓練するならば、神はその子どもをも祝福してくださり、救いの恵みの中にとどまらせてくださいます。

しかし、もし、ラハブの家への警告「あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。」のように、自分から進んで信仰を捨ててしまう者が現われれば、彼は、契約の外に出てしまったので、滅びに至ります。しかし、これは、通常のことではありません。

 

 

 

2001/09/01

 

 

 

 




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