キリスト教は内面だけの宗教か
個人の霊的な生活についてだけ考えればよいという考えると、現実の問題について非現実的な対応しかできなくなる。
信仰は世界から逃げ出すのではなく、世界の問題に立ち向かって行くことである。
アルミニウス主義のキリスト教は、世界からの逃避を教えることによって、キリスト教を腑抜けに変えてしまった。
カルヴァンのジュネーブ改革は、現実の政治を扱うものであった。彼は、世の問題に対して聖書によって解決しようとした。
現実との対決の中で、聖書の教えをとらえない人は、聖俗二元論者である。
現実は現実、信仰は信仰、と分けて考えるこの思想は、ご都合主義である。
結局、嫌なことを避けて恵みだけを受け取ろうとする御利益信仰なのだ。
政治の問題について聖書から考えるということになると、世とのかなり厳しい対決が予想されるので、それじゃあ、信仰は内面の問題だけに限ってしまおう、そうすれば、迫害されることもないし、世の支配者と平和に暮らせるだろう、という隠れたズルイ心がある。
こういった信仰には魅力はまるでない。
私個人には少なくともそのように見える。