神の敵にまで正直であれ?
ルーマニアが共産国の時代に、クリスチャンに聖書をとどける働きをしていた宣教師が、次のように言っていた。
「国境にさしかかったときに、聖書や信仰書などないかと尋ねられてウソをついてはならないし、かと言って、正直に答えることもできないから本当に大変だった。」
神の敵がそれによって神の民が滅びるような情報を求めてきた場合に、彼らに正直に答えることはクリスチャンにとって義務であろうか。
イスラエルの敵の追っ手に対して遊女ラハブは、違う道を教えて、イスラエルの人々を救った。
彼女は嘘吐きとして非難されているだろうか。
逆である。聖書は、彼女のことを信仰の模範に挙げている(へブル11・31)。
キリスト教を否定し、教会を迫害する神の敵に対してまで正直になる必要はない。
もし、このようなウソであっても罪であるとすれば、戦争において待ち伏せしたり、飛行機や戦車の上に草木をかぶせてカモフラージュすることも罪になるのだろうか。宣戦布告後の奇襲作戦は罪なのだろうか。
敵国に忍び込んだクリスチャンのスパイは、敵の前で何事も正直にふるまわなければならないのであろうか。
律法は、それだけが独立して存在するようなものではなく、契約の一部なのだ。
律法は、神と人間との間に結ばれた「神の利益の拡大」のための契約の条項である。
全体を損なうような細部へのこだわりを律法主義と言う。
「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。」
サタンに益するような正直の頭にはバカがつく。