キリスト教は、個人の内面だけを扱うもの?
キリスト教は、個人の内面について扱うもので、社会問題は関係ない、という考えが流行している。
しかし、聖書のどこに、「信仰は内面の問題だけだ。」と書かれているだろうか。
目の前に飢えている人々、病気に苦しむ人々、様々なストレスにさらされている人々がいても、「信仰は内面の問題だけだから・・・」と言って無視することができるだろうか。
現在のキリスト教が、内面化してしまい、社会に対してインパクトを失ってしまったのは、「キリスト教の御利益宗教化」が原因である。
教会に来る人々の第一の問題は、個人の問題である。個人の問題を契機に教会に来はじめることに問題はない。問題は、年季を積んだクリスチャンが、いつまでも個人の問題にとどまり、いっこうに外に目が向かないことなのだ。
前千年王国説や無千年王国説が流行るのは、「個人の問題を超えた問題を押し付けないでくれ。」と考える利己主義が原因である。
そして、教会はこのような利己主義者を第一の聴衆とし、彼らの要求にこたえることに努めてきた。
そのために、教会は社会において毒にも薬にもならないものになってしまった。
教会がオタク化したために、社会の第一線で働く人々や、真剣に真理を求める人々を惹きつけることができなくなってしまい、新興宗教を繁盛させるようになった。
マルクスが共産主義を唱えた1つの原因は、「キリスト教は内面化して、社会の問題、外的な問題に対応できていない。」ということであった。
サタンは隙間をうまく突くものだ。
クリスチャンが問題を回避するならば、そこに必ずサタンが根城を構えることになる。
クリスチャンがボケっとしていると、サタンがやってきて、そこに巣を作る。
マルクスは、クリスチャンがやることを怠った分野において、サタン的な代替案を提示した。
人々を救うはずだと信じて革命に参加した人々は、すぐに、「マルクス主義が我々に提供するものは、以前よりももっと悪い搾取と奴隷状態と貧困である」と気づいた。
真の福音は、必然的に外面的・社会的な問題にかかわるものだ。
「愛」が、具体的に人を助けなければ、いったい何の意味があるのだろうか。
「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものなのです。」(ヤコブ2・15−17)