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一見矛盾に見える聖書の個所について質疑応答2

 

<ご質問>

「マルコによる福音書」1章2節に次のように書かれています。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

しかし、「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」という聖句は、イザヤ書ではなくてマラキ書3章1節に書いてあるのではないでしょうか?

 

<お答え>

 イザヤ書403に「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために大路を平らにせよ。」とありますから、マルコ1・2の後半は問題がありませんが、前半は明らかにマラキ3・1「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。」です。

 ただし、「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」という言葉とは細かい点において異なっています。

 ですから、この個所全体は、「イザヤ書」の正確な引用でもなく、また、「マラキ書」の正確な引用でもないのです。

 聖書において引用されている引用文には、「書き手」の「考え」や「神学」が反映されていることが多く、必ずしも正確な引用ではありません。

 しかし、聖書は、「正確無比な記録書とか歴史書、文学書、科学書」ではないので、このような点において厳密さを求めることはできません。聖書は、「神と人間との関係を明らかにし、人生と世界の意味を記した啓示の書物」なのです。ですから、この点以外において正確無比を追求することはナンセンスです。

 私たちも、詩の中で「水が人を飲み込んだ。」とあるのを、「水が人を飲み込むことがあるだろうか。人が水を飲み込むのだ。」と、杓子定規に解釈したら間違ってしまいます。

 それと同じように、聖書には聖書の著述の意味や目的があるのですから、この点に注目して読む必要があると言えるでしょう。

 マルコの理解では、「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」という言葉は、預言者イザヤの書にあることになっています。

 しかし、実際は、マラキとイザヤの2つの個所にありました。

 文献学的に言えばはなはだしくいい加減なのですが、神学的には、非常に優れた理解なのです。

 なぜならば、マルコは、

 @メシア到来にはまず先駆者が来ることを信じていた。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」

 Aその先駆者とは、イザヤが預言した「荒野で叫ぶ者の声」と一致すると考えていたからです。

 

 

 




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