イスラエルとキリスト教の並行関係について2

 

は、ディスペンセーショナリズムとかなり違う解釈ですが、以下の理由により、こちらの方が聖書をすっきりと矛盾なく理解できると思います。

 

(1)新約聖書の預言が、古い時代(イスラエル王国)の終焉についてであると考えなければ、新約聖書の記者たちが、なぜ「すぐに来る」「時が迫っている」「終末が近づいている」と述べたのか、理解できません。もし、世界の終末と考えると、彼らの警告が2000年たっても実現しなかったということになり、聖書の無謬性に疑問が起きてもおかしくありません。

(2)「イスラエル」という古い世界秩序は、「全世界」という新しい世界秩序の型であるという聖書全体の主張と矛盾しません。

(3)古い世界秩序の完成者は、「律法と預言者を成就した」初臨のキリストです。同様に、新しい世界秩序の完成者は、「世界のすべての民族の弟子化の完成者」である再臨のキリストです。とすれば、「キリストは、信仰の創始者であり完成者」と言われる聖書の主張と矛盾しません。

 

結局、我々クリスチャンにとって、最も重要なのは、現在という時代は、1)破局に向って下降している時代なのか、それとも2)世界の弟子化に向って勝利の過程にあるのか、ということにあります。

 

1をとるか、2をとるかによって、私たちの信仰のあり方は非常に異なってきます。信仰全体を見れば、明らかに2であるべきなのですが、ディスペンセーショナリズムは1を主張しています。そのため、クリスチャンの間には、敗北への諦めが蔓延してリバイバルが起こりにくい状況となっています。

 

 

 

 




ツイート