日本人に相応しい伝道
日本人は、神の国の発展において特別な、高度な使命を帯びている。
それは、日本民族がこれまで世界において大きな能力を発揮し、世界第二の経済大国になったことからみても明らかである。
日本人が持っている素質は、世界をリードしているといわれるチュートン民族にひけをとらないと思う。
日本人は、世界最先端の技術や学問に追い付いていけるだけの力があるし、もし、思想的に成熟すれば、世界のトップを切ることすら可能であると思う。
残念ながら、鎖国によって、ヨーロッパの文化が入りにくかったこともあって、近代になってやっと目覚めた形にはなっているが、近代以降日本人の能力は開花して、世界に優秀な製品を送り続けてきた。
ヨーロッパにおいては、イギリス、ドイツ、フランス、イタリヤなど科学的な成果を互いに学び合って、競い合うことによって、高い文明を築き上げてきた。しかし、日本はそのヨーロッパの切磋琢磨から遠い位置にあったため、出遅れてしまったが、日本人の素質には、それに加わって十分に追い付いていける潜在能力がある。戦後の日本の復興はその証拠である。
しかし、日本に伝道にきた宣教師たちは、この潜在力をみくびっていた。彼らは、「日本人には難しい教理など言ってもわからないからやさしい例話で説教を満たすべきだ」というような愚民政策をとってきた。ことキリスト教に関する限り、日本人は世界のトップレベルの情報を受けられなかった。組織神学の本で日本語に訳されているものは、ヘンリー・シーセンぐらいしかない。
ホッジ父子、ウォーフィールド、メイチェン、ストロング、ベルコフ、カイパー、ヴァン・ティル、ドーイウェールトなど、世界の主流及び標準を作り上げてきた一流の人々の著作はほとんど紹介されていない。注解書でも同じことである。カルヴァンのキリスト教綱要などは例外中の例外である。
しっかりした学問的な背景がなければ、キリスト教が歪むのは当然である。
キリスト教の教理の歴史的な伝統がないところに、明治期、進化論や高等批評などが入ったため、高度な学問をやれる人々が、すっかり不信仰になり、まともな学問を作り上げることができなくなった。そのため、このレベルにおいて日本にはこれまで真空状態が続いた。信仰的でなおかつ、学問的にすぐれた研究はほとんどなかったし、あったとしても、それはごく少数の人々のグループの中でのことで、社会全般に影響を及ぼすまでにはいたっていない。
これは、一つの悲劇であるが、しかし、逆さに見てみれば、これはチャンスでもあると思う。つまり、日本人の潜在能力を信じて、大胆に世界のトップレベルの研究を志す人材を育てれば、日本は世界に伍していける一流の人材が育つと思う。これまでのように、ABCばかり教えているのではなく、固い食物を与えるように教育を施すべきである。
日本は、経済や技術の面において世界のトップの仲間入りをした。しかし、思想面を切り捨ててきたために、物事を土台から考える人材が育たなかった。そのため、トップを切ってなお、世界をリードする立場に立てる人材は出なかった。
アメリカが世界のリーダーとして立てるのは、背景としてそれを支えるだけの思想的なバックボーンがあるからである。アメリカは若い国だが、その背景には長いヨーロッパの思想面での遺産がある。
日本のキリスト教が、表面的なリバイバルを求め、教理を無視し、学問を軽視していても、いつまでたっても世界の後塵を拝する以外にはない。日本の伝道は、日本人の潜在能力に相応しいものでなければならない。いままでのような愚民政策をやめて、一般の学問のように世界に伍していけるだけの最高レベルの教育を行うことができれば、日本は、神の国において真に神が求めておられる役割を果たすことができるだろう。つまり、技術や商業や経済においてだけではなく、政治、社会、文化、芸術、あらゆる面において世界のリーダーとなれると思う。