絶対に裁くな?
<ご質問>
私は、聖書の言葉より、「私の言葉はとこしえに立つ」とおっしゃったイエス様の言葉に重きを置きます。彼は、マタイによる福音書5章17〜48節において、はっきりと「裁いてはなりません。」と教えています。イエス様の言葉の真意は、人間にはその判断はできないのですよ。裁きは神に委ねなさいと言っているのだと思います。これは、イエス様の思想に貫かれた教えです。カトリック教会が宗教裁判で殺してしまった人々を思い起こしてください。教会の権威を振りかざして、神から与えられた権威だと主張して、神の声を預かって、述べた預言者たちを殺してしまったではないですか?間違って殺された人間の命はどうなるのですか?それでも死刑制度が神の教えだとおっしゃるのでしょうか?
<お答え>
少し調子がきつくなってしまいますが、お許しいただければ幸いでございます。
(1)イエスは旧約聖書の律法を廃棄されなかった
イエス様は、「私は律法や預言者を廃棄するために来たのではない。」と仰いました。
それゆえ、律法と矛盾するようなことを言われるはずがありません。
もし、イエスの教えが、旧約聖書とまったく異なる教えであるとするならば、それは、「律法を廃棄」したことになります。
イエスは、その公生涯の中において、繰り返し「聖書には・・・と書いてある。」と述べておられます。また、福音書記者は、イエスの行動について、「それは、聖書が成就するためであった。」と述べています。イエスの御言葉や行動そのものは、旧約聖書と完全に調和しているというのが聖書全体の主張です。
パウロは、旧約聖書を指して(パウロがこの言葉を述べたときにまだ新約聖書は書かれていないかったので)、「聖書はすべて神の霊感によってかかれたものであり・・・」と述べています。
聖書を書かれたのが聖霊であるならば、イエスが聖霊の述べたことを否定することなどあるはずがないのです。
また、パウロは、「それでは、私たちは、信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」と述べており、新約聖書全体は、律法を否定しておらず、むしろ、その権威を尊重するようにすすめています。
イエスの御言葉や行動、新約聖書記者の言葉や行動は、すべて、旧約聖書と矛盾しないとするのが、聖書全体の主張です。
(2)イエスは裁くこと命じておられる
たしかに、イエスは、「裁くな。」と言われましたが、別の個所において、「うわべによって人を裁かないで、正しい裁きをしなさい。」(ヨハネ7・24)と述べており、裁きそのものを否定していません。
聖書において、相矛盾すると見える教えがあるならば、一箇所だけから結論を出すことはできません。
また、すでに述べましたように、新約聖書において、パウロは、国家が処刑する権威があることを認めており、新約聖書だけを見ても、そこから「あらゆる裁きは間違いである」という結論を導き出すことはできません。
(3)聖書と調和しない裁きは、正しい裁きと呼ぶことはできない
カトリック教会が宗教裁判で無実の人々を殺したのは、「非聖書的に」裁いたためであって、このことだけを取り出して「だからあらゆる裁きは間違いである。」ということはできません。
まず、カトリックは、異端者を処刑しましたが、聖書は、異端者について、「除名せよ。」と述べているだけであって、「処刑せよ」とは述べていません。
「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。このような人は、あなたも知っているとおり、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。」(テトス3・10-11)
また、聖書において、教会には処刑する権限は与えられていません。
処刑する権威は国家にしか与えられていません。