死後のセカンドチャンスについて6
聖書は「限定的な書物」であり、これによって万象を判断するということはできないというならば、私が常日頃主張しているヴァン・ティルの前提主義と矛盾するのではないか、と指摘される方がおられるかもしれません。
ヴァン・ティルが主張している「万物を判断する究極の基準は聖書だけである」という意見は、「聖書は万象についてことごとく解答を与えられる」と同義ではありません。例えば、聖書から水の構成元素が何であるかを知ることはできません。それは、聖書が扱うテーマではないからです。聖書は、あくまでも「神と人間との間に結ばれた支配の契約の書」であって、そのテーマ以外の事柄、例えば、科学的知識、車の運転の仕方、ハンマー投げの正しい方法などについて、事細かく啓示しているわけではありません。
それでは、これらのテーマは、まったく神と無関係に成立してもよいのか、というとそうではありません。
科学にしても、車の運転にしても、ハンマー投げにしても、神と無関係な領域は存在せず、神の言葉と無関係なものは一つとしてありません。宇宙に存在するものはすべて、神の所有なのですから、神の意志に反して行っても刑罰がないという領域は一つも存在しないのです。人間が行うすべてのことについて神は評価され、肯定的または否定的な裁きをくだされます。
聖書は、これらの様々な領域を包括する原則を提供しています。つまり、会社の契約書でいえば、「この自動車工場はすべて○○社に属し、そこで行われるすべての仕事は○○社の利益のために行われなければならない」という基本契約書と同じです。そこにおいて、塗装の方法や部品の据え付け方などを細かく指示しているわけではありません。しかし、塗装にしても、部品の据え付けにしても、○○社の利益のために行われるということにおいて、すべての作業や仕事について述べており、それらを包括しています。
工場内の器具やシステムに当たるのは、自然の様々な秩序です。これは創造において神がすでに据えておられます。人間は、これらの器具やシステムについて調べ、それを有効に活用して結果を出さねばなりません。
科学は、この器具やシステムについての知識を得るために存在します。工場の基本契約書にはこのような知識は記されていません。しかし、これらの知識は、工場の生産性を高めるという目的を持つという意味において、基本契約の下に位置します。
死後の救いの細かい部分についての知識は、この工場の例で言えば、工場の食堂で出てくるカツ丼定食のレシピのようなものです。カツ丼の作り方について知識がなくても、自動車は作れます。このような知識は、工場の生産性を上げて結果を出すという大きな目標にとって、不要なものであり、このような知識のために従業員が時間を使うべきではありません。
もし私たちが、カツ丼定食の作り方についてことさらに詮索しているならば、不良社員として解雇されてしまいます。私たちは、神の国建設という目的のために生まれ、召されたのですから、この目的とは無関係な不要な事柄に無駄な時間を使ってはならないのです。
たしかに、工場の食堂で出されるカツ丼定食に毒が含まれていたり、腐敗したものが入っていれば、従業員が健康を害して工場の生産性が落ちるので、工場の基本契約と無関係であるとは言えません。しかし、優先順位という意味において、カツ丼定食がダメなら、親子丼定食でもよいわけですから、このような知識はなくてよいわけです。
神は、自然という形で御自身を啓示しておられます。科学は、そのような神の自己啓示に応える行為なので、神の御心に沿っていると言えますが、死後の世界のように啓示されていない隠された事柄を詮索することは、「僭越」な行為なので、サタン的なのです。だから、霊媒や口寄せなどの行為は聖書において厳禁です。死後の救いについて、聖書に啓示されていない事柄について詮索することは、それゆえに、不要であるだけではなく、サタン的な行為でもあります。
02/09/09