火による裁きについて
<ご質問>
IIペテロ3章に記されている「火で滅ぼされる」の意味を教えてください。
聖書を文字どおりに解釈すると不信心な者が皆、かつて洪水によって滅ぼされてしまった様に、世の終わりにも火によって滅ぼされてしまうという事になると思います。また、黙示録20:9「天から火が下ってきて、彼らを焼き尽くした」は前者と同じことを述べている気がしますが、この神の火による裁きが、本当の地球(現世)最後の日ということになり、救いに与らない者には「火と硫黄の池」の運命が待ち受けていることになるのでしょうか?それとも、「火で滅ぼされる」には、何か別の解釈があるのでしょうか?
お願いいたします。
K.Mより
<お答え>
現在ある天地は、永遠の世界に変わります。
我々の肉体では、永遠の御国を相続することはできません。一つに、人間の肉体には堕落性が残っているからであり、もう一つに、そもそもこの肉体や世界は朽ちるものとして創造されたからです。
御国は完全な世界ですから、罪や腐敗が残存することは許されません。
「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(1コリント15・50)
現世界は、エントロピーの法則が働いています。秩序は無秩序に向っており、どのような人の肉体も滅びます。花はしおれ、草は枯れます。
この世界は、もともと過渡的なものとして創造されたのです。アダムから無数の子孫が生まれ、人間が神に従って、地上を神の御国として支配し、神の創造の御業を完成させるために地上に置かれたのです。
この朽ちるべき世界は、朽ちない世界への入口となるはずでした。アダムが完全に戒めを守るならば、契約の祝福が及んで、彼の身体も世界も永遠のいのちにあずかるはずでした。
この朽ちゆく世界は、アダムの功績によって永遠の世界に移行するはずでした。しかし、彼は失敗してしまったため、彼の肉の子孫も同じように、永遠の世界を相続することができなくなってしまいました。
それゆえ、神はキリストを通じて契約を完全に守らせて、彼の功徳によって人間に永遠の世界を継がせることにされたのです。キリストを信じる人々は、キリスト族となり、永遠の生命に与り、永遠の世界を継承します。
キリストは、この過渡的な世界において、神のテストに合格し、罪のゆえに呪いを受けた世界を完全に贖ってくださいました。それゆえ、天にあるものも、地にあるものも、いっさいが現在、神と和解しています。
「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ1・20)
法的に、世界は神と和解しています。
しかし、実際的には和解していません。和解が現実のものとなるには、クリスチャンが世界のあらゆる領域を神の規範に基づいて支配しなければなりません。
世界が実際的に和解することは確実です。そのような時が来ると預言されているからです。
「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる(原語:元の状態に回復する)時まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・21)
この回復の時は、ユダヤ人が信仰に立ちかえる時に実現します。
「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」(ローマ11・15)
ユダヤ人が回復したことは今までありませんでした。もしユダヤ人が紀元1世紀に信仰に回復したということが事実であれば、世界の秩序は元の状態に回復されたということになりますが、実際には、「朽ちる」世界はまだ我々の回りにあります。ということは、紀元1世紀に多数のユダヤ人が救われたことは、ローマ11章が述べている回復を指していないということになります。
ユダヤ人の回復は、未来に起こることなのです。
さて、ユダヤ人の回復と同時に世界は復活します。前代未聞の霊的な回復が世界中で起こります。多くの人々が回心し、聖霊の働きは未曾有のものとなります。福音は驚くほどのスピードで諸国に広がり、あらゆる国々の法律や学問や政治が聖書に基づくものに変わります。
このように、実際的にも世界は神と和解することになります。キリストがはじめられ、完成された和解の御業は、世界に及ぶことになります。
さて、第2ペテロの火による審判がこの世界全体の裁きとして起こるということが事実であるとすれば、「世界の和解」の事実と矛盾します。ペテロは、世界が火によって焼き尽くされることをノアの出来事と対比しています。
「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。」
ノアの洪水によって世界が裁かれたのは、世界が堕落したからでした。神に敵対し、神の法に違反したために世界が水によって滅んだのであれば、火によって滅びるためには、世界が神に敵対し、和解していないという状態になければなりません。
しかし、世界は、キリストによって法的に和解しました。また、実際的にも、世界は、歴史を通じて和解していき、ついには世界の諸国民が弟子となるのであれば、どうして終わりの日に火によって裁かれなければならないのでしょうか。
破局が来るためには、破局にふさわしい状態に世界がなっていなければならないのです。しかし、聖書はその逆のことを教えています。
世界のすべての国民はキリストの弟子となります(マタイ24・19-21)。
世界の諸国民は、律法を喜び、主の戒めを愛するようになります(イザヤ2・2-4)。
ということは、第2ペテロの火による裁きは、世界の終末とは別のことを意味していると考えなければなりません。
聖書の他の個所において、ノアの洪水の状態になると預言されているのは、みなイスラエルの終末においてでした。
「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24・37-39)
このマタイ24章の預言は、イエスの同時代に起こると、イエス御自身が述べておられます。
「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代(γενεα=generation)は過ぎ去りません。」(マタイ24・34)
ルカ17章25-27節もイスラエルの終末についての預言です。
「しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代(γενεα=generation)に捨てられなければなりません。人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」
当時のイスラエルは、イエスに逆らい、イエスの弟子達を迫害し、イエスさえも十字架につけて殺してしまいました。長い間の主の忍耐がまさに終わりに近づこうとしていたのです。
「それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」(マタイ23・35-38)
しかし、彼らはイエスを殺したことについて後悔もせず、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」していました。つまり、平然と通常の生活をしていたのです。しかし、滅びが突然襲いました。エルサレムは外国の軍隊に包囲され、人々は逃げ場を失って、数百万人の人々が虐殺されたのです。神殿は崩壊し、イスラエルの旧世界は完全に滅んでしまいました。
この紀元70年の出来事において、イエスの預言は成就しました。
聖書において、ノアのたとえは、イスラエルの終末についてのものでした。
世界の終末について、このノアのたとえが用いられている個所は一つもありません。
なぜならば、世界の終末においては、ノアの警告を行う必要があることは起こらないからです。
第2ペテロの「火による裁き」は、世界の終末についてではなく、イスラエルの終末についてであると考えなければなりません。
それでは、ある人は次のように尋ねるでしょう。
「第2ペテロでは、『終わりの日に』と述べているではないか。これは世界の終末についてではないのか。」と。
しかし、「終わりの日」は、必ずしも世界の終末を指すとは考えられません。ペテロは、ペンテコステの日を「終わりの日」と述べています(使徒2・17)。パウロは、テモテが牧会していた当時の時代を「終わりの日」と呼んでいます(第2テモテ3・1)。
また、「ペテロは、キリストの来臨について語っているのではないか。紀元70年にキリストは来臨されたのか。」と尋ねる人もいるでしょう。しかし、イエスは、弟子の幾人かが生き残っている間に「来臨がある」と語っておられるのです。
「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。』」(マタイ16・27-28)
また、「今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ」とある。紀元70年に天地は滅んだのであろうか、と尋ねる人もいるでしょう。
しかし、イエスは、イスラエルに対する裁きを「天地が滅び去る」日と述べておられるのです。
「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。<この天地は滅び去ります。>しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、<その日、その時>がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」(マタイ24・34-37)
私たちは、自分の感覚や常識で聖書を読むことはできません。聖書は、あくまでも古典であり、しかも聖書独特の象徴的表現方法があります。象徴的表現は、その表現方法を理解していなければ誤解してしまうのです。
例えば、黙示録において「天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。」(6・14)と述べられています。もしこれを文字通り解釈すれば、それ以降、天は存在しないということになりますが、それ以降にも天は存在しています。
「また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。」(10・1)
「天から降りてきた?天は巻き物が巻かれるように消えたはずでは?」という疑問が起きます。
旧約聖書ではさらにこのような表現が多用されています。
「<天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。>天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。野牛は彼らとともに、雄牛は荒馬とともに倒れる。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える。それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになる。」(イザヤ34・4-9)
これは、紀元前のエドムに対する裁きの預言です(鍋谷尭爾、『イザヤ書』新聖書注解(いのちのことば社)、p594)。この時代に「天の万象は朽ち果て」ましたか?「天は巻き物のように巻かれ」「その万象は、枯れ落ち」ましたか?
聖書を文字通り解釈することがいかに愚かしいかはこの一箇所をとってみても明らかです。
聖書は、聖書によって解釈しなければなりません。聖書以上に権威はないのですから、聖書のある個所は、他の聖書個所に照らして総合的に矛盾無く解釈する必要があるのです。
さて、黙示録20:9についてですが、これは、キリストの千年王国が終わりに近づいたときに起こる反逆に対する裁きです。最後に部分的短期的反逆が起こりますが、キリストの来臨により滅ぼされます。
また、火の池についてですが、クリスチャンではない人々は、再臨に続いて肉体の復活の後に、火の池に投げ込まれ永遠の苦しみを受けます。永遠の刑罰については様々な個所において例証されています。
02/04/06