会員制と私のビジョン
今まで、ボランティア的に活動してまいりましたが、昨今の不況の影響もあり、セルフサポートがかなりキツイ状態になってしまいました。
一つ文章を翻訳するにも、また原稿をまとめるにも、かなりの時間がかかってしまい、また、そのほかにも最新の情報を読んでいくにも時間が必要です。
実質的に現在の状況は、自分のサポートのためにほとんどの時間をとられてしまって、かつてのように勉強をする余裕がありません。
そこで、もし会員が増えて時間的余裕と金銭的余裕ができれば、どんどんラッシュドゥーニーやゲイリー・ノースなどの本を翻訳して出版したいと考えています。
先日、あるアメリカ人の御宅にお邪魔して聖書を囲んで話し合いをしたのですが、やはり、彼らもディスペンセーショナリストで、大患難が近いとおっしゃっておりました。
クリスチャンが社会に影響を与えて、創造論に基づく教育を子どもたちに行い、聖書に立った政治制度、経済制度、その他の文化的事業を進めるためには、このディスペンセーショナリズムのプレ・ミレの影響から解放されなければなりません。
しかし、今日、聖書信仰の人々が読んでいる日本語で翻訳されたり執筆されている本の99%が、ディスペンセーショナリズム的プレ・ミレの立場から書かれているため、人々は、オウム真理教とほとんど変わらない「ハルマゲドン・シンドローム」に罹っており、彼岸主義、出家主義に陥り、現実を変えようとする意欲を殺がれています。
このまま、クリスチャンが子供の教育について、科学について、文化全般について、ノンクリスチャンの支配の下にい続ければ、次世代は、せっかく私たちの先輩が築き上げた伝道の実を失うことになる可能性が高いと考えられます。
世界支配の理念を持つ宗教は、独自の教育を子弟に施そうとします。
シンガポールにおいて公立学校は義務ですが、イスラム教徒の父兄は、放課後、子供たちにこれとは別のカリキュラムを用意して、イスラムの理念を教え、公立学校のヒューマニズムの影響から子弟を守ろうとしています。
教育は、自分たちの未来を決定する重要な事業なのにもかかわらず、これまで、世界のクリスチャンは、世俗の学問を鵜呑みにして、子弟を無神論ヒューマニズムにどっぷりと漬けて、契約の子供たちを次々と失ってきました。かつて、世界宣教の中心地であり、伝道者のベースキャンプであったイギリスのクリスチャン人口は日本のそれとほとんど変わらないくらいに減ってしまいました。
私たちは、今日の世界の常識を根底から疑い、それを聖書から批判していかねば、ヒューマニズムの濁流に飲まれて、キリスト教はほとんど有名無実化してしまいます。
現在神の国は、危機的状況にあります。
今日のキリスト教が一生懸命取り組んでいる「瞑想」や「デボーション」「伝道」「悪霊追い出し」「預言」「教会成長」「心理学」などは、ことごとく、ヒューマニズムに対する反省なしに行われているために、問題を根本からとらえることができず、そのため、サタンに対して有効な攻撃を加えていません。
本当にリバイバルを期待するならば、サタンの一番痛いところを突かねばなりません。
ミレニアムのHPにおいて、取り組んでいるのは、このことなのです。
ヒューマニズムの哲学的な前提を批判し、その誤りを暴露し、その代わりとして据えるべき土台――聖書律法――を提供しています。
現在、ホームスクーリング運動などで、聖書に立った教育が開始されようとしており、大変喜ばしいことですが、ヒューマニズムの哲学的な土台に対する理解がまだ不充分であり、半ヒューマニズム半キリスト教の域から脱していません。そのため、それに代わる聖書的世界観も提示できていません。歴史はどの方向に向っているのか、そして、自分たちはその歴史の中でどのような役割を与えられているのか、について明確な解答を用意していません。この点について真剣に反省しない限り、ホームスクーリング運動は『必ず』頭打ちになります。
小泉さんの政治改革は、国民に明確な目標や理想を与えておらず、ただ我慢を強いるような発言ばかりしているため、国民の間には悲観論が広がり、株価はいっこうに上がりません。リーダーは、「今は我慢しても、将来このような姿になれる!」と明確なビジョンを示さねばなりません。
「もうすぐしたら再臨があり、携挙される!」というのは、ビジョンではありません。このような逃避的な目標は、目標ではありません。目標というのは、建設的でなければなりません。
神は、キリストの再臨に続く超自然的な働きによって一挙に世界を変えようとしておられるのではありません。神は、人間に労働することを求めておられるのです。「地を従えよ」との命令は、「労働を通じて、世界を徐々に私のために整えよ」と同義です。
労働を回避する教えはそれがどのような名前がついていても、ことごとく不健全で病的です。
ディスペンセーショナリズムは、世界のクリスチャンを病人に変えてきました。
オウム真理教の道場で、様々な「修行」が行われていますが、真の修行は、労働の中で積まれるものであって、俗世から離れて、瞑想三昧しても修行などできるはずがありません。人間は、現実と向き合うことによってのみ、心が健全になり、鍛えられるのです。神が人間を労働する者として造られたからです。
福音的教会に属する大学生が卒業後に社会適応に苦しんでいるのは、教会の教えが逃避的、彼岸的、出家主義的だからです。教会が、「世界支配」のビジョンを教えず、そのため、現実逃避の場になり、砂上の楼閣化したためです。旧約律法を否定した教会は、社会との接点を失いました。たとえ保っているとしても、社会を解釈する原理は、世俗から借りています。そのために、教会の中では、世界について二元論――つまり、使い分け――が支配的です。教会と個人の内面的生活については聖書に基づき、外部の世界については世俗の原理で…と考えられています。
「世は教会の光」なのではなく「教会は世の光」なのです。
クリスチャンは、聖書に基づいて、世の人々に正しい考え方を教えていかねばなりません。
今日のキリスト教の危機的状況を回避するには、聖書に回答を求めるしか方法がありません。
聖書に記された神の御心を学ぶ機会を提供し、クリスチャンが真の解決を与えられて、教会が再び活気を取り戻し、世に対してよい影響を与え、ついには、日本及び世界の諸国の体制がキリストを主とする体制に変えられることが私の人生の目的であり、そのためだけに尽力することが私の夢であります。
今後とも何卒よろしくお願い申しあげます。
02/09/03