カント流二元論からの解放
キリスト教は2つの極端に注意しなければならない。
(1)「神学は無益です。信仰(又は聖霊)だけが人をリバイブするのです。」という神秘主義。
(2)「奇跡や超自然は存在しない。」という自然主義。
今日の、聖書信仰の教会は、この2つの極端を教えている。
まず、(1)について:
私は、「神学をやると伝道しなくなる。神学なんて関係ない。」という説教を耳にタコができるほど聞いた。
彼らは、神学なんて関係ないと言いながら、説教をするときに、立派な神学者になっている。
神学なんて関係ないと本当に信じているならば、どうして、神学校を出たのか。あれは若気の至りだったのか。そして、神学校で教えられた神学に基づいて説教をしたり、指導したりしているのはなぜか。
もし、神学を否定するならば、彼らは、自分で一から聖書を学ばねばならない。教会が2000年をかけて積み上げた遺産をすべて否定して、三位一体論から論証していくか?
そんな愚かなことをするつもりなのか?
(2)について:
奇跡や超自然を否定するならば、キリスト教はヒューマニズムの「宇宙孤立系説」を受け入れることになる。神の名は「不思議」である。神は、人間の常識では考えられないことを行われる。
「奇跡は聖書の時代で終わった」と主張するキリスト教も、自然主義である。聖書がこのことを主張しているならば、私は納得する。しかし、聖書はこのことについて何も述べていない。それとも、神の名は、昔は「不思議」であったが、今は「当然」にでもなったと書いてあるのだろうか。
むしろ、神の国が進展するのは、「サタンへの霊的な勝利による」と聖書は述べている。もし超自然が存在しないなら、サタンには勝利できないということになる。
(1)も(2)も、どちらもヒューマニズムである。
このような異端的な考え方が教会に支配的であるのは、どういう訳だろうか。
それは、カントの世界観の影響なのだ。
カントは、世界を「超自然」の世界と「自然」の世界に分けた。
神や信仰の世界は超自然の世界に属しており、人間はそれを感覚によって知ることができない。だから、この世界について誰もが納得する客観的な学問は成立しない。この世界が人間にとって重要なのは、人間にとって利益のある場合だけである。つまり、この世界については、人間が自由に意義付けを行うことができるのである、と考えた。この考え方が近代人の考え方の基本にあるので、宗教は、人間の主観に基づいてもよい、と彼らは考える。
これは、キリスト教のような啓示宗教を否定する。本来のキリスト教は、聖書を読むときに、超自然的な世界についても、自然的な世界についても正しく理解できると考える。それゆえ、聖書はきわめて我々にとって重要なのだ。たしかに、霊の世界や、意味の世界について、科学は無力である。しかし、霊の世界や意味の世界について完全な知識を持っておられる神の御意見に従うときに、我々は、超自然の世界についてしっかりとした知識を持つことができる。
超自然の世界を神秘の世界とし、人間の無制限な自由を行使できる世界と考えるならば、クリスチャンは、カント的神秘主義者になってしまう。神学を否定する人々は、それゆえ、ヒューマニストなのだ。
カントにおいて、自然の世界は、「超自然を完全に除いた自立的な世界」である。それは、完全な宿命論の世界であり、科学的な法則によってのみ動いている世界である。自然を越えたことは絶対に起こらないから、人間は、科学的な法則の奴隷となる。
奇跡はすでに終わったと主張するクリスチャンは、それゆえ、カント的自然主義者である。
「復活や処女降誕は歴史的な事実としては起こらなかった」とする自然主義神学を取り入れた教会はもちろんのこと、今日の聖書信仰のグループの多くですらも、奇跡を聖書の時代に限定し、奇跡は今日起こらないと考えている。彼らは、このように言うことによって、半ば、カント的自然主義に堕落してしまった。
神は不変の御方である。
昔奇跡を行われたのであれば、今日でもそれを行われる。
我々の思考方法が、カント流のヒューマニズムの二元論(自然と超自然)に従っている限り、神秘主義と自然主義のいずれかの極端に陥ってしまう。
哲学的にキリスト教を洗い直さないと、我々は、聖書が教える世界について正しく理解することはできない。
この世界は、すべて超自然的な神によってたえず支配されている。
神の超自然の御手は常に我々の上にあり、我々の心臓を動かし、我々の脳を機能させ給う。
奇跡を否定するキリスト教は、この摂理の信仰を否定する異端である。