カントの準備してくれた避難所に逃げ込むな
17、18世紀に科学の発達とともに、科学理念(この世界は閉じられた系であって、超越者の介在なしに成立しており、自然法則や因果律だけが世界を支配しているとする)の勢いは留まるところを知らず、人格理念(人間は絶対的に自由であり、超越者の介入を受ける必要はないとする)を圧迫するようになった。
科学理念の勢いが増せば増すほど、人間の自由は失われ、世の中は宿命論に支配されるようになった。精神の世界から物理の世界まで、すべては法則によって支配され、そこに人間の意思や、倫理や宗教の介入する隙はない、とされるようになった。
カントは、科学理念と人格理念の両立を図った。科学理念の圧迫から、人格理念を救い出そうとして、科学理念の支配する領域を厳密に定義し、人格理念の支配する領域にまで踏み込むことはできないとした。キリスト教は、人格理念の支配する領域(叡智界)に属する事柄であり、それゆえ理性の精査を受ける必要はないとし、キリスト教を啓蒙主義の攻撃から守ろうとした。
当時のクリスチャンたちは、カントの救済策を受け入れた。それ以来、キリスト教は理性のチェックを受けなくてもよい「神秘な事柄」であると考えられるようになった。
本来のキリスト教は、「非理性的」ではないし、神秘主義の領域のものでもない。キリスト教は、カントが主張するような叡智界の領域の事柄ではない。
今日のクリスチャンが、「信仰と科学」を峻別して考えるのはカントの救済策を受け入れたことに原因がある。「信仰は頭じゃないから」という言葉が口をついて出てくるのは、このような間違った救いの手にのってしまったからである。
19世紀になって進化論の攻撃を受けるようになると、このように「非理性の領域」に逃げ込む傾向はさらに強くなった。「進化は事実だ。とすると、アダムの堕落はウソか。となると、人間の罪を救済するキリストの贖いも根拠がなくなる。理性的に考えるならば、キリスト教は成立しなくなってしまうではないか。それじゃあ、カントが作ってくれた避難所に逃げ込むしかない。」と。
キリスト教は、神秘化した。
キリスト教は、理性が通用しなくてもよい神秘宗教になってしまった。
たしかに、科学側からの攻撃を受けなくてもすむようになった。「科学者の皆さん。あなたがたがいくらキリスト教を攻撃しても無駄ですよ。キリスト教は科学の領域に属するものではなく、非理性の領域に属することですから。」と述べれば逃げられるようになった。
キリスト教は、日本の神社のおみくじと同レベルになってしまった。
「どうしておみくじを引いて運勢が分かるかって?なんとなくですよ。宗教は頭ではないですから。」と言って逃げられるレベルになってしまった。
当然、このような逃げ方は、科学の側からの嘲笑を誘った。「やっぱり、宗教は阿片だ。訳もわからずに、おみくじなんか引いて。そんなもので自分の未来などわかるはずはないじゃないか。もっと科学的にものを見ないといけないのだよ。キリスト教だって同じだろう。理性的な我々は、宗教などに関わりたくはないのだよ。」と言われるようになってしまった。
それ以来、キリスト教はまともな大人の信じるものではなく、無知蒙昧人の慰めとしか考えられなくなった。クリスチャン自身のセルフイメージも地に落ちた。クリスチャンは、科学にコンプレックスを抱き、科学側からの攻撃にたじたじとなってしまった。「どうせ俺達は阿片中毒ですよ。」といじけるようになってしまった。ヒューマニズム科学からの攻撃と真っ向から対決するのではなく、カントが用意してくれた「温室」の中に逃げ込む安易な道を選択したので、もはや外気に触れると生きて行けないモヤシッ子になってしまった。
キリスト教は、聖書の中の出来事が歴史的な事実であることを強力に弁証しなければならない。進化論を受け入れるならば、自分は「神秘主義者」であることを認めたことになる。「ああ、どうせ俺は理屈に合わないことを信じる夢想家ですよ。」と言う前に、「進化論者さん。進化って本当にあったのですか?証拠は?」と真っ向から対決しなければならない。
戦いを避ける敬虔主義やアルミニウス主義の神秘的キリスト教では、世界を獲得することはできない。相手は張子の虎であることに気づくべきである。敵側が用意してくれた避難所の中には緩慢な死をもたらすガスが充満している。