完全無欠な社会など来ない

 

<ご質問>

製作者の方、内容の深いHPをありがとうございます。今回、初めてコメントさせて頂きます。

 私はクリスチャンではありませんが、世の中結局は「隣人を大切に()しましょう」ってことになると思います。でも、その隣人が殺されたら怨念返しをしたくなるのも、率直に正しいと思いますが、そのとき問題になるのは、仕返しをすれば、そのまた怨念返しが来るということです。だから、報復を乗り越えなくちゃいけない、乗り越えるための葛藤が起こるわけです。そのため、怨念さえ捨てなくちゃいけないような気がします。

 けれど、その解決はどうやら宗教にはなさそうだと思うのです。もっと違う何かを見つけなければならない。広くお互いの存在を認めあうといった心のありようではないかと思います。これから少しずつ、こういうシステムを構築していく事が、私たちにとって大切で必要な物だと思うのです。

 それとも、キリスト教には全てを受け入れ許せる力があるのでしょうか?

 

<お答え>

殺人者に対する怨念を解決するシステムは、不可能であるというのが聖書の主張です。

システムは何も解決しません。システムが悪いのではなく、人間の本性が邪悪なのです。

それは、自分自身、そして、クリスチャンも含めて全人類が心において邪悪なのです。つまり、システムをどのように改良してもこの地上に楽園は絶対に来ないということです。この意味においてキリスト教は、システムに幻想を抱きません。

キリスト教が目指しているのは、殺人も、殺人者に対する復讐の怨念もない理想の世界ではなく、この地上においては、可能な限り健康体を保つことでしかありません。

悪に対する応分の報いをその悪人に与え、地上においてきちんと清算が完了するような社会を目指します。これは、怨念から出た復讐ではありません。1000円借りたら、1000円を返すということです。1万円を借りた人は1万円を返すことです。

人体においてもそうですが、傷を負って、その傷口が修復されないと、その人は少しの怪我で死んでしまいます。罪は傷をつけることですから、その傷を治すことが必要になります。

悪いシステムは、その傷を修復しないまま、傷をつける人を放置するシステムです。

「それでは、キリスト教はこの世界の完全な回復を目指していないということになるのか。」という疑問が起きるかもしれませんが、事実「そうです。」としか答えられません。我々のような罪深い人間が生きている限り、そのような理想社会は絶対に実現しません。

キリスト教が究極的に信頼しているのは、復活後の「完全な回復」です。キリストの再臨の後に、全人類が復活します。そして、それぞれが肉体において行ったすべての行いに応じて、報いか刑罰が下されます。

そして、堕落は完全に除去されます。人間は、地上においてできる限り理想の社会を目指す責任がありますが、それだけでは、理想社会は来ません。

我々の罪が完全に清められるのでなければ、理想社会は来ません。

この意味において、キリスト教は悲観的であると同時に楽観的なのです。

キリスト教は、他の宗教システムについて「肉体の復活を前提としなければ、絶対に理想郷など来ない」と断言します。人類はこれまで「復活を前提としない理想郷」を作ろうと努めてきました。しかし、すべて失敗しました。共産主義はその一つですが、理想郷は地獄になりました。理想を目指す人々は、純粋であればあるほど、対立者を粛清し、抹殺しようとしました。フランス革命にしても、ロシア革命にしても、おびただしい数の人々の血が流されました。

日本においても、理想のコミューンを作ろうとしましたが、すべて破滅しました。ヒッピームーブメントは、幻想に終わりました。

教会を理想郷にしようとする人々がいますが、現実とのギャップに悩んできました。キリスト教そのものですら、そのような「完全無欠」の集団を作ることをあきらめているのです。そして、そのような理想を抱くことは間違いであると聖書そのものが言明しているのです。

我々がこの地上で目指すべきものは、「完全無欠の体制」ではありません。できるだけ向上しようとすることは大切ですが、「完全無欠」は「復活後の世界」に期待する以外にはありません。

もしこの地上において、すべてを完成しようとすれば、失望だけではなく、他者を粛清する不寛容な社会が現われます。この点は気をつけないと、歴史の愚行を繰り返すことになります。

 

 

02/03/03

 

 

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