契約性の回復を
近年流行のキリスト教は、「キリスト教の契約性」を無視しています。
クリスチャンになるということは、アブラハムの契約の中に入ることです。イスラエルは割礼を受けて生まれながらにアブラハムの契約に入りましたが、その契約の中に異邦人も招き入れられました。新約時代になって、割礼は廃止されましたが、バプテスマがそれに取って代わりました。過越に代わって聖餐が導入されましたが、契約という意味においては、旧約も新約も一貫しているのです。
アブラハムの契約の中心は、神の主権です。
「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。』
アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。『わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。』」(創世記17・1-4)「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と、契約の前に服従を要求しておられるのです。
アブラハムと言えば信仰義認の中心人物ですが、彼にしてもなお、「行い」を要求されているのです。
聖書において契約とは、「契約の主への服従」を前提としています。つまり、「わたしは、あなたを主として認め、あなたの命令を守りますので、あなたの民として保護し祝福してください。」ということが、「契約に入る」ということなのです。
聖書における契約は、このように「主従関係」を結ぶことなのですから、私たちの側では、服従することが契約の中に留まる絶対の条件となります。
「服従する気はありませんよ。」というような人は、そもそも、この契約にふさわしくないのですから、除名されます。
モーセ契約は、氏族的なアブラハム契約から、民族を形成するための性格を帯びることになりました。しかし、その本質は一貫しており、ヤーウェに対する服従が基本です。
十戒の第一戒は、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
」という「主権性の宣言」です。イエスは、「律法の一点一画たりともすたれることはない。律法を廃棄するために来たのではない」と述べ、モーセ契約の永遠性を保証されました。我々は、「神を主として拝む服従の宗教」を信じているのです。ディスペンセーショナリズムは、契約期を分割し、時代時代によって支配原理が変わったと主張し、「このように法に服従することを求めるモーセ契約は、あの時代特有のものであって現在の我々には無関係である」と教えますが、もし神が、モーセの時代には「主権者」で、民に律法を与えたが、今の時代は「主権者ではなく」民に律法を与えない、自由に振舞うことを許しておられる、というような神であれば、それは、カメレオンであり、多神教の神とほとんど変わりありません。人間が多神教を必要とするのは、自分の欲望を優先したいからです。領域領域によって主権者が変われば、一貫した倫理や原理に縛られることがないからです。つまり、多神教とは、人間(至上)教なのです。
ディスペンセーショナリズムは、キリスト教の中に入り、人々から神の契約の言葉を奪ったサタンの教えです。
しかし、現状としては、人々は、聖書の契約に帰るよりは、ディスペンセーショナリズムの人間教のほうを愛しています。人々は、律法に縛られたくない、と考え、聖会などで、「我々は律法から解放されたのです。我々は何にも縛られない自由の身となったのです。」と叫んでいます。
現在のキリスト教の大多数がこのような異端に支配されているというのはゆゆしきことです。
キリスト教は、契約性を取り戻し、健全な姿に帰る必要があります。
02/02/11
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