王であるということ
福音書には、イエスが絶体絶命のピンチになる個所が何箇所かある。
しかし、そのいずれにおいても、イエスが敵から圧倒されてしまうと書かれている個所はない。
ユダヤ人の指導者や群集に追い詰められて、崖のふちまで追いこまれるが、イエスは彼らの間をすりぬけて出ていった、という。
これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた(ルカ4・28-30)。
イエスが捕らえられて十字架につけられるのも、イエスがすすんで自分からそのようになったのであって、無理やりつれて行かれて処刑されたとは記されていない。
これは、なぜだろう?
それは、イエスが王だからである。
イエスが主権者なので、他の誰からも強制されることはない。イエスは王としての権威を持っているので、けっして他者から自由を奪われることはない。
王とはそのようなものなのだ。
さて、クリスチャンも王であるといわれている。
クリスチャンも、同じことが言える。
クリスチャンは、けっして、誰かから圧倒されて滅んでしまうことはない。
「あなたがたの髪の毛一筋さえも失われることはない」(ルカ21・18)。
サタンの攻撃にあって滅んでしまうこともない。
我々は、「天使すらも裁くべきもの」(1コリント6・3)だから。
クリスチャンは、完全に自由である。
クリスチャンが誰か他の人から圧倒されて、ダメになってしまうことは絶対にない。
クリスチャンが誰かに痛めつけられることがあっても、それは、クリスチャンの側に力がないからではなく、神がクリスチャンを訓練するために試練として与えているからである。
我々は、王としての自分の身分について考えてみる必要があるのではないだろうか。
自分に与えられた驚くべき地位を悟るときに、我々は、あらゆる敵に「勝ち得てあまりある」者であることを知ることになるだろう。
確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません(ルカ10・19)。