宗教の教義とその信者の行動との区別
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私の疑問に答えることなく、あなたも麻原を出してきましたか?>
麻原のような特殊な例を持ち出すのは、下の下ですよ。>
麻原が指示したことは、実行犯の証言によりすでに明らかになっております。>
だから、彼は公判中なのです。もう何だか、文脈をよく読まずに場当たりの答えしか返ってこないので、答えるのが面倒になってきました。
いいですか?
全体をまとめて簡潔に言います。
宗教批判においては、その信者の現象をとりあげる場合、その信者がその教義そのものに対して忠実であったかどうか、ということが問題になります。なぜならば、宗教の教義そのものが規定している教えに違反したら、その人はもはやその宗教の信者ではないからです。もし、宗教の名を語るすべての人の責任をその宗教に負わせなければならないとしたら、この世の中にまっとうな宗教など存在しないということになる。ヒューマニズムも含めて。
例えば、麻原がやったことのゆえに、仏教を責めたてる人はいないでしょう。麻原がやったことは、仏教を語る新興宗教の逸脱であって、あれは仏教ではないと判断するからです。
しかし、もし、仏教そのものに、人間を殺害することを肯定する教義があるならば、仏教にその批判がいきます。
ここで、わたしは、神道はその教義そのものに、寛容的とか包容的とかいう美名のもとに、他者を有無を言わせず強制する教義上の欠陥があるのではないかと感じているという話をしました。その証拠は、小泉の靖国参拝です。国民の全員が神道信者でもなく、また、日本という国が神道を国教としているのでもないのに、国民の代表として小泉が参拝した。そして、それを
T氏が賛成して、むしろ、推進している。これは、いくらT氏が、神道は寛容で包容的と言っても信じることができない理由です。そこで、わたしは、そもそも神道がそして、
T氏がどうして、神道行事を国民に強制するのか尋ねた。もし、「神道は寛容で、包容的ですよ。なぜならば、神道は他宗教の誰にも何をも強制しないからです。すべてを許して包み込むのです」というならば、「じゃあ、どうしてこちらが唾棄したいと思っているいわしの頭を、我々の制止を振り切って参拝するのか。」と尋ねられる。
今回の参拝がなければ、あなたたちは、ある意味において、「寛容的、包容的」と叫んでも、それほど批判されることはなかったのですよ。
寛容と包容と、今回の小泉の参拝について、どのように矛盾を解決するのかみたいですね。
もう一点。何度も口をすっぱくして、述べているように、キリスト教徒が何をしようと、そのキリスト教徒が、その経典や教義を無視して行った行為の責任をその経典や教義に負わせることはできないというのは、宗教批判のイロハです。こんな幼稚な批判を何故繰り返すのですか?
400
年だか、500年だか植民支配した人間をクリスチャンと認めることはできない。彼らは、聖書の教えにまっこうから対立し、聖書を無視して、自分の我欲と貪欲を満足させるために、植民支配を行った。これは、聖書とまったく矛盾する行為であって、彼らをクリスチャンと認められない、と繰り返し言いましたよね。それにもかかわらず、あなたは、なぜ何度も何度も、無益な批判を繰り返すのですか?
こういった、整理のつかない、むやみな批判を繰り返し、文脈を無視されると本当に、答えるのが辛くなるので、いいかげん、相手の言っていることを理解してくださいな。
01/08/14