日本の法律は強制力を持ち、宗教は社会において強制力を持ち得ない?2
>
宗教を国家の法律の如く権限をもった物とする考え方は好ましく>
ないと考えます。
一体、宗教的信念に基づかないで成り立っている国家がどこにあるのか。
「基本的人権」は宗教ではないのか。
どうして人間には幸福を享受する権利があるのか。
だれがその権利を認めたのか。
科学か。
科学がどうして人間が幸福になる権利があるということを証明できるのか。
いいかね。
人間には幸福を享受する権利があるというのは、信仰であって、証明された事実ではない。
「人間には幸福を享受する権利がある」ということに決めよう、という決まりごとでしかないのだ。
科学は、実験観察によって証明可能なことについてしか言うことができない。
つまり、科学が扱うことのできる領域はきわめて限られているのだ。
科学的真理と科学的真理を結ぶには、どうしても宗教的判断をせざるをえない。
例えば、物理学の科学的真理(例えば
Aとしよう)と心理学のそれ(例えばBとしよう)とを結びつけるには、科学的方法(つまり論証的認識論)は役に立たない。
AとBは、それぞれ論証可能な真理かもしれないが、AとBを結びつけて世界観を作ろうとすると、そこにどうしても「直観的認識論」が介在せざるをえない。
だから、世界観とか宗教的信念とかを科学的に論証することは不可能なのだ。
「人間には幸福を享受する権利がある」ということを科学的に証明する手だてはいっさい存在しない。
善悪の基準とか、物事の本体とか、人生の意味とか、死後の世界とか、人間の善または悪の行為に報償または刑罰があるかないか、ということについて、人間は「主観的判断」以外のいかなるものも加えることはできないのだ。
これが近代哲学が見極めた人間の認識の限界なのだ。
だから、日本国の法律は強制力を持つ正当な権利があり、宗教には強制力を持つ権利はないということを断言はできない。
「自分が信じ、隣のミーちゃんが信じ、向かいのハーちゃんも同意しているいわゆる『多数派の意見』」が、公的で正当で、誰もが首肯すべき普遍的真理だなんて断言するのはまさに「多数派の錯覚」である。
多数派だから、国家が支持しているから、みんなの意見だから、というのは、まったく議論において論拠にならない。
だから、こういう主張は、単なる「主観の主張」でしかなく、それゆえ、他の思想について強制(つまり、「宗教」には強制権を持たせてはならないという強制)する権利などない。
おまけ:
現代日本の主流派に限らず、政権担当者の常套文句は、「私たちの国家を成立させている信仰はけっして宗教ではなく、科学的に論証できる普遍的な真理なのです。」である。
こういった政権担当者から教育を受けると、「そうだ、俺達の国家を成立させている信仰はけっして宗教ではなく、科学的に論証できる普遍的な真理なのだ。」とオウム返しをするようになる。
そこでこういったマインドコントロールを受けた連中は、「俺達は非宗教で、奴等は宗教。」という単細胞な区別しかできなくなる。
さらに、「俺達の非宗教には強制権があるが、奴等には強制権がない。」などという身勝手なことをいい始める。
こういった手合いは、イスラム教国に生まれれば、「アラーの決めたことは普遍的な真理であって、宗教ではない。」などと言い出す。
人間は、不可避的に宗教的動物であって、宗教的信念から離れて行動することは一切できない。
人間は、科学的に論証できない事柄については、宗教的言説しか言うことができないということを忘れると、「俺は宗教者ではない。」などという妄想にとりつかれ、自分が他者に対する強制を「普遍的真理に基づくきわめて正当な手続き」であると錯覚する。
おまけのおまけ:
こういった錯覚をする人は、世界旅行でもして、共産国やイスラム国やキリスト教国で暮らすべきである。
自分が普遍的真理であると錯覚しているモノが、いかに他国においてそうではないかを痛いほど知るようになるだろう。