救済の原理と労働の原理とを混同してはならない
<
ご質問>愛とは何か?の中で、富井さんが説明されているのは、アガペーの事ですか?
<
お答え>そうです。
ギリシャ語において「愛」を意味する言葉は4つあります。
アガペー(αγαπη)の愛とは、「相手が利用価値があろうがなかろうが、他の人々の評価が高かろうが低かろうが、自ら積極的に選び愛すること」を意味しています。能動的な愛です。
フィリア(φιλια)の愛は、「自然に心からわきあがる愛」であり、受動的な愛です。友人や子供、肉親、国家に対して「相性」や「血」のゆえに起こる本能的な愛です。
エロース(ερω
s)の愛も自然にわきあがる受動的な愛であり、男女間の恋愛を指します。ストルゲー(στοργη)の愛は、肉親への受動的愛です。
聖書において「神の愛」と呼ばれているのは、主にアガペーの愛であり、相手がどのような者であっても、その人に価値を見出し、積極的に愛する愛であって、利用価値があるかどうかは無関係です。
人間社会において、通常、利用価値がない商品や人間に御金を払おうとする人はいません。大なり小なり相手を利用して、人々は仕事をしています。
しかし、この行為そのものは悪いことではありません。もし、利用価値を問わずに経済生活が成り立つならば、究極的に経済は破綻し、個人も会社も国家も借金を背負って、最終的には回りの人々に迷惑をかけることになります。
需要と供給のバランスを人為的に取ろうとする計画経済は破綻します。ソ連や東ドイツや北朝鮮、さらに戦後の日本がその好例です。政治力に頼って企業努力をしない会社の商品が横行するならば、市場に粗悪品や、粗悪なサービスが出まわります。日本の高速道路料金の高さは、社会主義思想の「擬似的アガペー」の結果です。アガペーの愛だけが尊くて、フィリアやエロス、ストルゲーの愛を徹底否定すると、市場の審判に委ねることを悪とみなすようになり、世の中に質の悪いものが出まわることになり、社会的に破綻するのです。
聖書において、フィリアやエロス、ストルゲーの愛は否定されていません。イエスは、しもべに御金を渡して「これで商売しなさい」と命じた主人の話をされました。より多く稼いだ人が褒められ、努力せずに御金をしまっておいた人は叱責されました。
神の救いと選びはアガペーによります。つまり、我々が選ばれて救われたのは、ただ信仰によります。我々が素晴らしいことをしたから救われたのではありません。我々に価値があるからクリスチャンになったのではありません。
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5・6-8)
救いに関しては神の愛は「無条件の愛」なのです。
しかし、キリストの弟子となったクリスチャンとの間にはそれとは異なる関係が生まれます。神は、我々を「しもべ」として扱われるのです。ここに市場原理が働きます。つまり、神は我々の「仕事」を評価されるのです。
我々が、神のために、御国の前進のためにどれだけ努力したか、どれだけ効率よく働いたか、を神は評価されるのです。
「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(1コリント3・10-15)
イエス・キリストを信じた人々は、キリストという土台を据えました。これは神の無条件的な愛によります。我々の努力によって土台が据えられたわけではありません。しかし、土台を据えた後では、各人がどのような建物を建てるかは、その努力と熱意と工夫によって結果は異なってきます。ある人は「金、銀、宝石」で建て、ある人は「木、草、わら」で建てます。しかし、最後には「火」によって真価を試されます。
「金、銀、宝石」で建てた家は残りますが、「木、草、わら」で建てた家は、燃えてなくなってしまいます。家が燃えた人は、焼け跡に茫然と立ち尽くしますが、自分自身は滅びません。なぜならば、無条件の愛によって救われているからです。
今日の流行の教えは、愛とは「アガペー」だけだ、と言いますが、神の創造は、アガペーだけで成立しているのではありません。我々の身体は筋肉と骨から成り立っていますが、それだけではなく、上に皮膚が覆っています。建物で言えば、鉄骨とコンクリートがむき出しのままではなく、そこに「美的配慮」があります。神は、我々に美醜を判断する中枢を与え、顔の好みなどを与えておられます。赤ちゃんは可愛らしい姿をしており、お母さんが愛さずにはいられない形に整えられています。
もしキリスト教が、アガペーだけを愛と認めるならば、その思想を社会に適用できません。そのようなクリスチャンが政権を取れば、なんでも
OKの社会がやってくる危険性があります。競争を排除し、市場の需給バランスを壊し、やがて破綻が訪れます。神は競争と努力を肯定されているのです。「罪人としての人間」は無条件で赦され選ばれますが、「しもべとしての人間」は努力してよりよい商品やサービスを提供する責任があります。救済の原理と労働の原理とを混同することはできないのです。
02/03/16