最後の審判に意識を集中せよ
歴史を越えたところに自分の人生の目標を置かないと、この世の中で評価され、報いを受けてしまうとイエスは述べておられる。
「天に宝を積みなさい。この世の富は、虫がついたりさびたりするが、天の宝はそのようなことはないから。」
「人々の前でラッパを吹くのはやめなさい。その人はこの世においてすでに報いを受けてしまっている。右の手のしたことは左の手に知らせるな。」
かつてビリー・グラハム大会があったときに、教会の牧師たちがさかんに気にしたのは、「うちの教会にどれだけメリットがあるか。」ということだった。
メリットとは何か?
自分の教会に人が集まるかどうかがそんなに大切なのか。
また、牧師は自分の教会の有能な信者が結婚などで他教会に移ることを嫌うと言う。
その有能な人が他教会に行ってそこで素晴らしい働きをして、日本における伝道が進めばいいではないか。
「受けるより与えるほうが幸いである。」
人に益を与えることによって、受けるよりも大きな祝福が返ってくるのではないだろうか。
このような日本のタテ社会を打破するために福音があるのに、福音をタテ社会にしてしまうというのは本末転倒である。
結局、目を永遠の報いに向けないと、自分の生涯を○○組の発展というちっぽけな目標のために捧げることになってしまう。
最後の審判に意識を集中しない人や組織は愚かである。