掟に縛られないキリスト教?
戒律中心の宗教は日本においては人気がない。
「掟に縛られるべきではない。掟中心のパリサイ人はイエスによって糾弾されたではないか。イエスは掟からの解放を告げられたのだ。」という教えが戦後アメリカの無律法主義の伝道師たちによって、教会に広まった。
さて、イエスは、「掟に縛られるべきではない。」とどこで言ったであろうか。
私はある牧師が礼拝のメッセージで、次のように言うのを聞いたことがある。
「姦淫してもいい、殺人してもいい。しかし、これらが益となることはない。」
さて、キリストは、「姦淫してもいい。殺人してもいい。」と言われただろうか。
むしろ、「これらの小さな戒めの一つでも破るように教える者は、天の御国において最も小さな者とされる。」と言われなかっただろうか。
「縛られない掟」とは、「掟」ではない。
それは、単なるアドバイスである。
教会は、神を単なるアドバイザーにしてしまった。
彼らの神様は、「姦淫しないほうがいいと思うよ。殺人もできたらやめたほうがいいと思うね。」と言うだけである。
もし、「姦淫してはならない。殺してはならない。」と主権者として掟を宣言するなら、彼らは、「あなたのような掟を押し付ける神はいらない。」と猛反発する。
これこそ、偶像崇拝の本質である。
彼らは、実のところ、偶像崇拝者なのだ。
彼らは彼らが批判するところのパリサイ人と同じように、イエスに向かって、「私たちは、あなたを王として望んでいない。」と言う。
「今日、クリスチャンは掟から解放され、掟に縛られなくなった。」と説くキリスト教は、キリスト教ではなく、まったく別の宗教なのだ。