神の基準を立法化する手法について
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ひとつお聞きしたいのですが、富井さんが言われていた「自分の信じる>
神の言葉で他人を殺す」ような「主権」とはどのようなものだったの>
でしょうか? 最近の富井さんの書き込みを見ていると私が「神の言葉」>
をもとに他人を殺す事について再三お聞きしていた頃からこのような>
形でお答えいただけていれば、と思える部分も多いのですが、「聖書の>
神の強制力」は「民主的な手続きによってキリスト教の教義を基本法と>
して受け入れ」た社会にのみはたらく、という事だったのでしょうか。>
また、「社会の法律を決める」という意味での主権者はあくまでも>
「神」(信者の信じる神の言葉)ではなくその社会の「人間」である、>
という事でしょうか。
聖書は、「権威を敬う」ことを命令しており、現在存在している国家や、その
国家において指導者になっている総理大臣やその他の人々、会社の社長、部長、
専務、家長・・・、すべては「神によって立てられた」ので、彼らに従うことを
命じています。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在し
ている権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっ
ている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを
招きます。」(ローマ13・1ー2)
だから、いかに聖書の教えが正しいとしても、革命を起こしてまでそれを適用
しようとすることは間違いです。
したがって、もし、自分の信仰を現代の日本の「民主主義政体」において適用
しようとすれば、それは、あくまでも「民主主義」の手続きに従わなければなら
ないのです。
なぜならば、日本国民である日本人のクリスチャンにとって「権威」とは、日
本国の法律であり、日本国の法律は、国民の代表者を国会に送り、国会において
日本の法律が制定されるという手続きを定めているわけですから。
日本の法律に聖書の基準を適用させようとするならば、聖書の基準に同意する
人々を多数獲得し、選挙によって代表者を選び、自分達の意思を国会に反映させ
るようにする以外にはありません。
これは、「最終権威は日本国民である」という意味ではなく、「最終権威は神
であるが、その神の意志を実現させる方法は、自分の上にある権威を敬い、彼ら
の同意を得て平和裡に行うという方法である。」ということなのです。
ヨセフは、兄弟によってエジプトに奴隷として売り飛ばされましたが、奴隷と
して忠実に主人に仕えたので、奴隷の長になり、ついにはエジプトの宰相にまで
上りつめました。
聖書の支配の方法とは、「謙遜と服従を通じての支配」なのです。
だから、イエスは、「あなたがたの中で一番偉くなりたい者は、一番仕える者
となりなさい。」と言われたのです。
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富井さんは、「神の言葉」で信者が「他人の物の所有権を自分に移す」>
「人を殺す」という事を「主権」の例として挙げられていましたが、こ>
れも信者が「神の言葉」のみを理由にそのような事を行う事は「禁止」>
すべきだ、という事ですか?
「聖書に、同性愛者を処刑せよ。」とあるから、おまえを殺す。ということは
できません。
聖書では、処刑や強制の権限は、国家にしか与えられておりません。
リンチは、権威に対する反逆であり、罪です。
自分が属する国家が同性愛者を処刑する法律を持っていないのであれば、その
クリスチャンは、同性愛者を処刑せよと主張することはできません。
共産主義のように、暴力的な手段によって、自分の上の権威を打倒し、自分の
意思を実現するという手法は、違法です。
だからと言って、国家が定めた法律すべてに対して盲目的な服従をせよと言っ
ているわけではなく、あくまでも現体制に対して間違っていると思われる事柄に
ついて抗議し、改正を求めていくことをすべきです。
また、自分に対して国家が不当な要求をしてくるならば、それを拒否すること
ができます。それによって法的制裁を受けることも甘受します。
例えば、明らかに侵略戦争でしかないと思われる戦争に荷担することを求めら
れれば兵役を拒否することができます。
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ましてや、「神」が誰かをあるいはある宗教を「罪」と決め付けたら>
信者がその人たちを「滅ぼし」たりその人たちの財産を「自分たちの>
ために奪い取る」ような行為は、信者が信じる「創造者である神の主>
権」で正当化出来るようなものではない、という事ですね?
神が誰かを「罪」と決め付けたとしても、「国家権力以外のもの」がその人た
ちを「滅ぼし」たりその人たちの財産を奪い取るような行為を是とすることはで
きません。
あくまでも、「殺害権」や「財産没収権」は、国家にのみ与えられた権威であ
り、しかも、国家は他の国家の国内事情について裁判権を持つものではないので
すから、キリスト教国だからといって、他国の国民の罪を裁くということはでき
ないのです。
また、国家が「殺害権」や「財産没収権」を持つとしても、あくまでも正当に
定められた法律に基づかず、正当な理由なしに(恣意的に)そのようなことを行
うならば、国家は神の掟に違反しているので、国家が神の裁きの対象となります。
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> 「自分を愛するように隣人を愛せよ。父母を敬え。盗むな。殺すな。>
>姦淫するな。偽証するな。貪るな。侵略するな。年長者を敬え。自分の>
>体のごとく妻を愛せよ。」>
このような事はキリスト教に限らず多くの思想・宗教が言って来た事>
で、様々な思想・宗教の「基準」を読めばそれほど「おかしくない」部>
分も当然ありますよ。ただ、このような基準にしても法律にする時には>
「自分信じる神が言っているから」という信仰を理由に「押し付け」る>
のではなく、立法化する「手続き」といったものが大切になってくるわ>
けですよね。
「自分の信じる神が言っているから」という信仰を理由に「押し付け」ること
はできません。クリスチャンでもない人々にクリスチャンの基準を押しつけても
自己満足以外の何でもありません。あくまでも価値観の違う人々が共存する社会
においては、価値観を共有するように求める(クリスチャンを増やす)か、その
問題の事項について共通の理解を得る(例えば、殺人は罪だということについて、
「聖書がこう述べているから」という理由を提示するのではなく、殺人の非合理
性について納得のいく説明をして共通の理解を得ていく)というやり方以外は
(非クリスチャン社会における現時点では)ナンセンスでしょう。
「おれは聖書に立ってこう思うんだ〜。」と言っても、「聖書が正しいと信じ
ていないから、おれはそうは思わないよ。」と言う人々が多い日本の社会におい
ては、立法化の手法としてはナンセンスです。
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「殺人の禁止」などの「超越的な普遍法」がなければならない、という点>
については少なくともそれがなければ社会自体が成立しない、という意味>
での基本的法体系はあるでしょう。また、多くの宗教や法体系においても>
殺人は禁止されて来たわけです。ただ、私は「超越的な普遍法」を持つあ>
るひとつの主観(それは、誰かの「神」の言葉であるかもしれないし、>
経典であるかもしれない)を法律の大枠として固定する事が、「すべてを>
社会の構成員の主観に委ねる」事以上にその「普遍法」の存続を保証する>
事になるとも思えない。
まあ、これについては、いろいろと考えてきましたが、どうも「すべてを
社会の構成員の主観に委ねる」という法実証主義の手法は、危険が多いように思
えます。
すでに述べたように、古代、中世のみならず、近代国家の歴史においても、
「超越的な普遍法」を基礎としてそれぞれの法律を制定し、判決をそのような
「超越的な普遍法」を基準に決定してきたことのほうが圧倒的に多かったわけで、
法実証主義が主流となったのはごく最近になってからのことでした。
近代においても、王権が法律を超越する立場(つまり、王の価値観が自然法に
優越するという立場)に対しては、その専制のゆえに、強烈な反発が起こり、そ
れが諸々の市民革命を誘発しましたし、ソ連や中国のように、自然法をとっぱらっ
て(無神論においては超越的価値は存在しませんから)、時代時代の為政者個人
や集団の決定に委ねる体制においては、逆に、権力者の恣意がのさばり、非権力
者の自由がひどく抑圧されたという経緯がありますので、私は、「すべてを社会
の構成員の主観に委ねる」よりも、「超越的な普遍法」の伝統のほうがよいので
はないかと考えているのです。
だからといって、「超越的な普遍法」なら何でもよいというのではなく、古代
から近代にわたって受け入れられてきた(現代においても大部分そうですが)
「聖書に基づく超越的な普遍法」がよいと考えています。
「人権」「自由」「同害刑法」など、現代の国家において採用されている様々
な価値観は、キリスト教の人間観が基本となっていますし、それが、現代におい
ても自明の理のごとく扱われているところから、このような「超越的な普遍法」
をこれからも存続させるのがよいだろうと考えます。