小学3年生を騙すためのウソ
小学生の頃、父と公園を散歩しているときに、何でも透けて見える小さな望遠鏡のようなものを売っている香具師に出会った。サクラの子供に自分の手のひらを見せると、その子供は「あっ、ほんとうだ。骨が見える。」と言う。集まった子供たちが少しのぞいて見ると、たしかに白いものが見える。もちろん、それは鶏の羽か何かを中に入れているだけなのだ。
口上がひとくさり終わると子供たちがそれを求めて殺到した。騙されたと気づいた頃には彼らはすでにドロンしている。
子供は、愚かである。
子供は、容易に騙される。
何が正しいか、何が間違っているかを見分けるのは、大人の目である。
信仰に入りたてのクリスチャンはまだ子供である。
だから、サタンは、キリストの十字架とか復活、創造という基本的な教理について疑いを持たせるようにする。
信仰を訓練され、もっと堅い食べ物を食べることができるようになったクリスチャンには、サタンは、さらに高度で複雑なウソを用意する。
「歴史上に登場した実在のイエスは不完全な有限な存在でしかなかったが、歴史を越えた普遍的なキリストは常に完全である。聖書は不完全な人間の言葉でしかないが、「神の言葉」は無謬であり永遠不滅の真理である。永遠なる「神の言葉」は、説教において有限な世界に入り込み、永遠なるキリストは、人間イエスへの信仰において有限な世界に入り込む。」という、ヘーゲルの「永遠・有限」二元論をキリスト教に持ち込んだバルト神学は少し高度なウソである。
「この世はサタンのものだ。だからこの世においてサタンに抵抗するなど無駄骨だ。」という「サタン信仰」は、けっして高度で複雑なウソではない。
まあ、言ってみれば、小学3年生を騙すためのウソである。