人命を尊重する社会を作るには
最近、十代の少年たちによる人命軽視の犯罪が問題になっている。
しかし、人命軽視は、異教に常につきまとう問題である。
異教文化が進めば進むほど人命軽視も激しくなる。
古来、キリスト教が入る前の世界では、人身御供が盛んであった。
何かの建築物の下には女性など社会的弱者が生き埋めにされた。
中南米のピラミッドの頂上では、幾万もの捕虜の心臓が捧げられた。神殿の
500本の柱の一つ一つの下には若い処女が生き埋めにされた。また、奴隷売買も盛んであった。現在でも、イスラム商人の手によって奴隷売買が行われている。「サタンははじめから人殺しである。」
それゆえ、サタンに支配された文化では、人の生命が軽んじられる。戦争中の日本も同じである。特攻隊、自決、強制労働など、人間の生命が軽く見られていた。
先日のロシアの原潜事故は、ソ連時代ならば闇に葬られた事件であった。無神論国家は、神を敬わないので、神の似姿である人間に対して敬意を払わない。そのような国家にとって、人間は利用するための道具である。
今日、日本において進化論教育が進み、人間が単なる動物の延長でしかないと教えられている社会において、人命はますます軽視されている。いくら「福祉」が唱えられていても、そもそも、人間観が進化論に基づいていれば、生命軽視の風潮は避けられない。
世界は、キリスト教の導入、リバイバルによって、徐々に人身御供や奴隷制度、虐待から解放されてきた。
「神の似姿、神の象徴としての人間」というキリスト教の人間観を回復しなければ、世界はまたもや異教の人命軽視に戻ることになる。
家庭内暴力、幼児虐待、学校崩壊、いじめ…、これらの問題は、キリスト教の土台の上に築かれた現代文明が形骸化し、その中核の精神を失ったために起こっている。解決は、社会のキリスト教化以外にはない。まず、国民が悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じることである。そして、生まれ変わった人々が、聖書の教えを社会に適用していくことである。それ以外に、人命を重んじる社会は生まれない。